小学五年生だったYさんが、家族旅行で訪れた古い温泉旅館での出来事。
昔ながらの趣があるその旅館は、廊下を歩くたびに床がきしむ音がするほど、年季が入っていた。
Yさんが家族と通された部屋は、広縁のついた和室だった。
荷物を置いて一息ついた時、ふとYさんは部屋の押し入れに目が留まった。
少しだけ開いていたその隙間から、何かの影が見えたのだ。
好奇心に引かれて開けてみると、奥に古いくたびれた、クマのぬいぐるみが転がっていた。
それは毛並みもあちこち擦り切れている、決してきれいとは言えない人形だったが、Yさんにはそれが可愛らしく見えて仕方なかった。
Yさんはそのぬいぐるみを手に取り、ぎゅっと抱きしめた。
「お母さん、この子、可愛いでしょ?」
母親は、「そんな汚いものを抱くのはやめなさい」と顔をしかめた。
父親も眉をひそめたが、Yさんがぬいぐるみをどうしても手放そうとしないので、最終的には「仕方ないわね」と諦めたような顔で許してくれた。
結局その夜、Yさんはぬいぐるみを抱いたまま、布団に入って眠りについた。
夜中、Yさんは尿意を感じて目を覚ました。
寝返りを打つと、腕の中にあったはずのぬいぐるみの感触がない。
ぼんやりとした意識の中で、Yさんは上半身を起こした。
すると枕元に置いたはずのぬいぐるみが、宙にスーっと浮き上がっているのが見えた。
Yさんは何がおきてるのか分からず、それを見つめるしかなかった。
ぬいぐるみがゆらゆらと、まるで意思を持っているかのように漂い、そして、なぜか少しだけ開いていた押し入れの奥へと、吸い込まれていくように消えていった。
Yさんはあまりの事に声も出せず、震えながら隣で眠る母親を揺り起こした。
「お母さん…お母さん…!」
母親は眠たそうに身動ぎ、小さな唸り声を上げた。
「どうしたの?もう朝かしら?」
「あのね、ぬいぐるみ、ぬいぐるみが、お、押し入れに…!」
Yさんは震える声で何とか絞り出した。
母親は寝ぼけ眼でYさんの顔を見つめ、やがて困ったようにため息をついた。
「あらあら、Y。夢でも見てたんでしょう?疲れてるからもう寝なさい」
そう言って母親はYさんを軽く抱き寄せ、再び眠りについてしまった。
父親も寝返りを打つ音だけが聞こえる。
Yさんは誰にも信じてもらえない現実に、布団の中で一人、ただただ震えるしかなかった。
翌朝、Yさんがどうしても昨夜の出来事が忘れられず、顔色が悪いのを見た母親が、女将に昨夜のことを話してみた。
Yさんが怖がっていたこと、ぬいぐるみが押し入れに消えたことを。
女将は話を聞くと首を傾げた。
「そのようなぬいぐるみは、当旅館には置いておりませんが…」
女将の言葉にYさんは思わず声を上げた。
「嘘だよ!押し入れに入っていったんだよ!ほら、見に来て!」
Yさんは女将の手を引っ張り、部屋の押し入れまで連れて行った。
しかし押し入れの中は、整然と布団が畳まれているだけで、どこを探しても、あの古いぬいぐるみは影も形もなかった。
昨夜、確かにそこに吸い込まれていったはずなのに。
女将は怪訝な顔で首を傾げ、Yさんの母親は困ったように微笑むばかり。
Yさんの言葉を誰も信じてくれない。
しかしYさんの脳裏には、暗闇の中をスーっと浮き上がり、押し入れに吸い込まれていくぬいぐるみの姿が、鮮明に焼き付いて離れなかった。
あのぬいぐるみは、一体どこへ消えてしまったのだろうか。
そしてあの旅館の押し入れには、一体何が潜んでいるのだろうか。