会社員のSさんが体験した話。
その日、Sさんは残業で遅くなり、最終電車に飛び乗った。
いつもと変わらない夜の駅、そして乗り慣れた路線の電車。
疲労で重い体を座席に沈め、Sさんは目を閉じた。
電車は定刻通りに発車し、ガタンゴトンと規則正しい音を立てて走り出す。
しばらくして目を開けると、窓の外に広がる景色が、どうにも見覚えのないものだと気づいた。
いつもならこのあたりは、もっと建物が密集しているはずだ。
電車の揺れに身を任せていたSさんの背筋に、冷たいものが走る。
車両の電光掲示板に目をやると、次の駅名が表示されているはずの場所に、なぜかずっと「次の駅」という文字が点滅している。
一向に駅に着く気配がない。Sさんは首を傾げた。
こんなことは初めてだ。
車両にはSさん以外に数人の乗客がいた。
皆、疲れているのか、うつむいてスマートフォンを操作したり、ヘッドホンをつけて音楽を聴いたり、あるいは深く眠りこけていたりして、誰もこの異様な状況に気づいている様子はなかった。
誰もが自分の世界に閉じこもっているかのようだ。
Sさんの胸にじわりと不安が広がっていく。
どうなっているんだ?乗務員に聞いてみよう。
Sさんは重い腰を上げ、車両の連結部にある乗務員室を覗こうと一歩踏み出した。
その瞬間だった。
ガタンッ、と大きく突き上げるような衝撃と共に、電車が急停車した。
同時に車内の明かりがプツン、と音もなく消え、あたりは一瞬にして漆黒の闇に包まれた。
その真っ暗闇の中、Sさんの耳元にひどく掠れた女の声が届いた。
どこか遠くから聞こえてくるような、しかし、すぐそこで囁かれたような不明瞭な声。
はっきりと聞き取れたのは、たった一言だけ。
「ハヤクカエリタイ」
恐る恐る周りを見渡し窓の外を見ると、そこは先ほどまでとは全く違う景色だった。
見渡す限り、深い深い森が広がっている。
街の明かりはどこにも見当たらない。
木々のシルエットが、闇の中で不気味に揺れていた。
恐怖で体が震え出したその時、ガタン、と再び電車はゆっくりと動き出し、パッと再び車内に明かりが戻った。
Sさんは何が起こったのか理解できないまま、ただ固唾を飲んで窓の外を見ると、見慣れた駅のホームが目に飛び込んできた。
次の駅だった。
電車が停車すると、Sさんは震える足で車両を降りた。
他の乗客たちは、まるで何事もなかったかのように、ぞろぞろと電車を降りていく。
Sさんは彼らが普段通りの顔をしていることに、言いようのない寒気を感じた。
翌日、Sさんは恐る恐る電車の遅延情報を調べてみたが、昨夜のあの時間帯に、あの路線で特に異常は報告されていなかったという。
あの電車は一体どこへ辿り着いてしまったのだろうか。