
Kさんは休日に一人で、人気の少ない山道をハイキングするのが趣味だった。
都会の騒がしさから離れ、静かな山道を歩くことが何よりのリフレッシュになっていた。
汗をかき、自然の中で心を解放する時間は、日頃の疲れを忘れさせてくれた。
ある日のこと、Kさんはいつものように、お気に入りの裏山へと足を踏み入れた。
その日は特に天気が良く、鳥のさえずりが心地よく響いていた。
小道をしばらく進んでいくと、Kさんの目に奇妙なものが飛び込んできた。
道の真ん中に古びた藁人形が落ちていたのだ。
それは誰かが故意に置いたかのように、道の真ん中に仰向けで転がっていた。
黒ずんだ藁の束はところどころほつれており、中央には錆びついた釘のようなものが打ち込まれている。
奇妙な事にその藁人形には顔のようなものがある。
だが顔の部分は曖昧で、目鼻立ちもはっきりしない。
Kさんは思わず立ち止まった。
じっとりと湿った空気をまとうその人形からは、得体の知れない不気味さが漂っていた。
Kさんはゾッとした。
気持ち悪く思いながら人形を避け、そのまま通り過ぎた。
その日の夜から、Kさんの生活は少しずつおかしくなっていく。
深夜、Kさんの部屋のどこかから、カサカサと何かが擦れるような音が聞こえ始めた。
最初は気のせいかと思った。
古い家だから、ネズミでもいるのかもしれない。
しかしその音は規則正しくなく、まるで何かを引きずるかのように、部屋の中を移動しているようだった。
音のする方を向くとぴたりと止まる。
そしてKさんが目を離すと、また別の場所でカサカサと音がし始めるのだ。
Kさんは眠れない夜を過ごすようになった。
数日後、音だけでなく、視覚にも異変が現れ始めた。
誰もいないはずなのに、視界の隅で何かが動く気配を感じるようになったのだ。
振り返っても何も見当たらない。
だが、確かに視界の端に黒い影が揺らめいた。
それはNさんが山道で見た藁人形のような、不定形な塊にも見えた。
Kさんは自分の目が疲れているのだろうと、無理に納得させようとした。
しかし、その気配は日に日に増していった。
台所にいるとリビングの端に、風呂に入っていると脱衣所の入り口に、常に視界の隅にその何かが映り込むのだ。
Kさんは、あの山道の藁人形がついてきたのではないか?と思い始めた。
ある夜、Kさんがリビングでテレビを見ていると、いつものカサカサという音が、はっきりと自分の背後から聞こえてきた。
そしてすぐ後ろに立っているように感じられた。
Kさんは意を決して、ゆっくりと後ろを振り返ったが何もいない。
安堵したのも束の間、Kさんの体は突然重く、そして冷たい何かにぎゅうっと抱きしめられたような感覚に襲われた。
身動きが取れない。呼吸も苦しい。
Kさんの耳元で風もないのに、何かが囁くようなか細い音が聞こえた。
それは言葉にはならないただの音の羅列だったが、Kさんにはそれがあの山道の藁人形の声だと思った。
Kさんの日常は、あの山道の落とし物によって完全に侵食されていった。
誰もいない部屋でも常に誰かの気配を感じ、カサカサという音と、視界の隅で揺らめく影に怯えながら過ごすことになった。
夜、眠ろうと目を閉じれば、まぶたの裏にあの藁人形の顔が焼き付いて離れない。
そしてKさんは見てしまった。
部屋の隅に、あの時山道で見たのと同じ古びた藁人形が座っていた。
そしてその人形の藁の隙間から、わずかにKさんを覗き込んでいるかのような、冷たい視線を感じた。
Kさんはその藁人形を引っ掴んだ。
ずしりと重く、藁が手に擦れる感触がする。
震える手で用意した大きなビニール袋に、その人形を乱暴に押し込んだ。
口をきつく縛り、さらに別の袋に入れて二重にした。
翌朝、Kさんはその藁人形の入った袋を誰にも見つからないように、まだ暗いうちからゴミ捨て場に持って行った。
燃えるゴミの日に、他のゴミと一緒に紛れ込ませる。
Kさんは悪夢から覚めたかのように、その場を足早に去った。
それからというもの、Kさんの周りでは何も起きなかった。
夜中のカサカサという音も、視界の隅をよぎる影も、全てが嘘のように消え去った。
あの藁人形がいた部屋の隅は、以前と同じただの静かな空間に戻っていた。