怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

水底から聞こえてくる声

渓流釣りが趣味だというTさんから聞いた話。

 

彼は休日のたびに、奥深い山奥の沢へと分け入っていくのが常だった。

その日もいつものように人影ひとつない静かな沢の、お気に入りの場所で竿を出していた。

 

いつものように水が流れる音や、木々の葉が風にそよぐ音。

そうした自然の音を聞きながら釣りをしていると、違和感を覚えた。

どこからか女性の歌声のようなものが聞こえてきたのだ。

Tさんは耳を疑った。

こんな奥まった沢に人が来るはずがない。

ましてや歌を歌うような者など。

彼は竿を置くとその音の出どころを探るように、周囲に意識を集中させた。

 

水の流れる音に混じり、確かに歌声は聞こえる。

かすかではあるが、Tさんのいる場所のすぐ対岸、あの岩場の向こうから聞こえているようだった。

はっきりと聞き取れるわけではない。

音の粒が水に溶けていくように曖昧で、メロディも言葉も判別できない。

ただ歌声が聞こえる。

 

Tさんは好奇心に駆られた。

あの歌声の主が一体何者なのか、どうしても確かめたくなった。

対岸へ渡ろうと、彼は険しい岩場をよじ登り始めた。

足場は悪く苔むした岩は滑りやすく、なかなか向こう岸へは近づけない。

それでも歌声は、Tさんを沢の奥へ奥へと誘い込んでいるように感じられた。

Tさんは未知への探究心と、どこか不穏な気配が入り混じっていた。

 

そうこうしているうちに、いつの間にか日は傾き始めていた。

沢には薄い陰が落ち始め、空気はひんやりとしてくる。

その時だった。

それまで聞こえていた歌声が、ぴたりと止まったのだ。

Tさんは思わず息を飲んだ。

沈黙が訪れた一瞬の後に、今度は低く濁った声が聞こえてきた。

水底から響いてくるかのような、奇妙に反響する声。

それは人の声とは違う、異質な響きを持っていた。

Tさんは身震いした。恐怖がじわりと足元から這い上がってくるのを感じた。

 

彼はその声のする方、水面ぎりぎりの岩陰を恐る恐る覗き込んだ。

水は澄んでいてその底が見えた。

そしてそこに、Tさんは目を奪われた。

水底に女性がいるように見えたのだ。髪が水の中でゆらゆらと揺れている。

だがその肌はどこまでも真っ白で、まるで石膏でできた人形のようだった。

生きた人間の肌色とはかけ離れていた。

水中で目を開いているのか、それとも閉じているのかも判然としない。

ただその白い影が、Tさんを見上げているように思えた。

 

Tさんの全身に悪寒が走った。

あれは人間ではない。

彼は直感的にそう感じた。

背筋が凍りつくような感覚に襲われ、彼は急いでその場を離れた。

持っていた荷物を乱暴に掴み、来た道を夢中で引き返した。

足元がおぼつかないまま、ひたすら山道を駆け下り、何事もなく駐車場まで来れたそうだ。

 

あれが何だったのかは、今もわからないという。