怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

須弥壇の奥に立つ影

とある地方の古いお寺で、住職を務めていたSさんの話。

 

Sさんがこの寺に来たのは、まだ住職になったばかりの頃だった。

町中にある賑やかな場所とは無縁の、山あいのひっそりとした場所にある古い寺。

歴史を感じさせる伽藍は、夜になると一層静になる。

Sさんはその静けさが気に入っていた。

毎晩本堂で一人、厳かに読経するのが日課だった。

自分の声だけが、広々とした空間に響き渡る。

その響きがSさんの心を落ち着かせるようだった。

 

ある日の夜、いつもと同じように読経をしていた時だった。

ふと、Sさんは視線を感じた。

須弥壇(しゅみだん)の奥、普段は本尊が鎮座しているその場所。

その奥の誰もいないはずの空間に、何かが立っているのが見えた。

それはまるで墨を流したように真っ黒な影で、人の形をしている。

しかし、顔も手足も、衣服の判別さえもできない。

ただ、そこに人の形をした黒い塊がある。

Sさんは最初、疲れているせいか見間違いだろうと思った。

目をこすりもう一度その場所を見たが、影は消えていない。

そこにじっと立ち続けている。

読経の声が一瞬途切れる。

しかし、Sさんは動揺を悟られまいと努めて冷静を装い、再び経を唱え始めた。

声に力を込める。

経文を唱えることで、この不気味な影が消え去るのではないか。

そう願いながらSさんは必死だった。

 

だが、どれだけお経を読んでも影はそこに立ち続けた。

微動だにせず、ただ静かに立っている。

その無言の存在が、Sさんの精神をじわじわと蝕んでいくようだった。

恐怖が体中を駆け巡る。

Sさんはこの得体の知れない存在から、視線をそらすことができなかった。

 

読経を終え本堂を後にする時、Sさんはまるで足元がおぼつかないような感覚に襲われた。

振り返ると影が追いかけてきているのではないか。

そんな予感がしたが、何もついてきていなかった。

 

翌日、Sさんは本堂の掃除に入った。

昨日影が立っていた場所へ、ゆっくりと近づいていく。

そこには、目に見えない不自然なほどの冷気が残っていた。

まるで真冬の早朝の空気だけが、その一角に閉じ込められているかのようだった。

鳥肌が立つ。

自分の見間違いではなかった。確かにそこに何かがいたのだ。

 

それからもSさんが夜中に読経をするたびに、その影は現れ続けた。

読経中にふと視線を向けると、須弥壇の奥に、いつもと同じように黒い影が立っている。

それは何もせず、ただそこにいるだけ。

動くことも音を立てることもない。

しかし、それがかえって不気味だった。

Sさんはその影が何を訴えているのか、あるいは、ただそこに存在しているだけなのか理解できないまま、今日も夜のお勤めを続けている。

本堂の静寂の中で、黒い影はSさんの目の前に現れ続ける。

 

だが、影は何もしないし、Sさんの読経を邪魔することもなく、Sさんに害を加えることもなく、ただそこにいるだけだった。

毎日毎日、同じ場所に同じように現れる。

何年もの月日が流れ、Sさんはいつしかその影の存在に慣れてしまっていた。

もはやSさんにとって夜の本堂に立つ影は、そこに常に存在する風景の一部となっていた。

恐怖は薄れ、諦めにも似た感覚が残った。

今日もSさんは本堂の扉を開ける。

そして、いつも通り須弥壇の奥に立つ、真っ黒な影を視界の片隅に入れながら、淡々と読経を始めるのだった。

 

お題「百物語(参加型なので一人でいくつ投稿しても可)」