とある地方の古いお寺で、住職を務めていたSさんの話。
Sさんがこの寺に来たのは、まだ住職になったばかりの頃だった。
町中にある賑やかな場所とは無縁の、山あいのひっそりとした場所にある古い寺。
歴史を感じさせる伽藍は、夜になると一層静になる。
Sさんはその静けさが気に入っていた。
毎晩本堂で一人、厳かに読経するのが日課だった。
自分の声だけが、広々とした空間に響き渡る。
その響きがSさんの心を落ち着かせるようだった。
ある日の夜、いつもと同じように読経をしていた時だった。
ふと、Sさんは視線を感じた。
須弥壇(しゅみだん)の奥、普段は本尊が鎮座しているその場所。
その奥の誰もいないはずの空間に、何かが立っているのが見えた。
それはまるで墨を流したように真っ黒な影で、人の形をしている。
しかし、顔も手足も、衣服の判別さえもできない。
ただ、そこに人の形をした黒い塊がある。
Sさんは最初、疲れているせいか見間違いだろうと思った。
目をこすりもう一度その場所を見たが、影は消えていない。
そこにじっと立ち続けている。
読経の声が一瞬途切れる。
しかし、Sさんは動揺を悟られまいと努めて冷静を装い、再び経を唱え始めた。
声に力を込める。
経文を唱えることで、この不気味な影が消え去るのではないか。
そう願いながらSさんは必死だった。
だが、どれだけお経を読んでも影はそこに立ち続けた。
微動だにせず、ただ静かに立っている。
その無言の存在が、Sさんの精神をじわじわと蝕んでいくようだった。
恐怖が体中を駆け巡る。
Sさんはこの得体の知れない存在から、視線をそらすことができなかった。
読経を終え本堂を後にする時、Sさんはまるで足元がおぼつかないような感覚に襲われた。
振り返ると影が追いかけてきているのではないか。
そんな予感がしたが、何もついてきていなかった。
翌日、Sさんは本堂の掃除に入った。
昨日影が立っていた場所へ、ゆっくりと近づいていく。
そこには、目に見えない不自然なほどの冷気が残っていた。
まるで真冬の早朝の空気だけが、その一角に閉じ込められているかのようだった。
鳥肌が立つ。
自分の見間違いではなかった。確かにそこに何かがいたのだ。
それからもSさんが夜中に読経をするたびに、その影は現れ続けた。
読経中にふと視線を向けると、須弥壇の奥に、いつもと同じように黒い影が立っている。
それは何もせず、ただそこにいるだけ。
動くことも音を立てることもない。
しかし、それがかえって不気味だった。
Sさんはその影が何を訴えているのか、あるいは、ただそこに存在しているだけなのか理解できないまま、今日も夜のお勤めを続けている。
本堂の静寂の中で、黒い影はSさんの目の前に現れ続ける。
だが、影は何もしないし、Sさんの読経を邪魔することもなく、Sさんに害を加えることもなく、ただそこにいるだけだった。
毎日毎日、同じ場所に同じように現れる。
何年もの月日が流れ、Sさんはいつしかその影の存在に慣れてしまっていた。
もはやSさんにとって夜の本堂に立つ影は、そこに常に存在する風景の一部となっていた。
恐怖は薄れ、諦めにも似た感覚が残った。
今日もSさんは本堂の扉を開ける。
そして、いつも通り須弥壇の奥に立つ、真っ黒な影を視界の片隅に入れながら、淡々と読経を始めるのだった。