
若くして山奥の荒れた寺の住職になったTさんの話。
その寺は茅葺屋根が苔むし、石畳にはびっしりと草が生えているような、寂れた佇まいをしていた。
本堂の裏手にはうっそうとした竹林が広がり、昼間でも薄暗い。
Tさんはそんな静けさに惹かれて、この寺の住職になることを決めた。
寺の境内の片隅には古びた井戸があった。
いつからそこにあるのかもわからないほど古びていた。
井戸の口には木の蓋がされ、その周りには背の高い雑草が生い茂り、忘れ去られたような様子だった。
Tさんは寺に着任してからしばらくの間、その井戸の存在を特に気に留めることはなかった。
異変に気づいたのは寺に来てからひと月ほど経った、初夏の頃だった。
境内の掃除をしていたTさんは、伸び放題になった井戸の周りの草を刈っていた。
蒸し暑い日だった。
汗が額から流れ落ちる。
ふと作業の手を休めた時、Tさんの耳に微かな音が聞こえてきたような気がした。
まるで遠くで誰かが呟いているような、小さな声だった。
人の声のようにも聞こえるし、風が草木を揺らす音のようにも聞こえる。
しかし周囲を見渡しても人影はない。
風もそれほど強く吹いていない。
気になったTさんは草を刈るのをやめ、井戸のそばに近づき耳を澄ませた。
すると井戸の底から、確かに何かの声が聞こえてくる。
聞き取れない。
何を言っているのか全くわからない。
ただ断片的に、うめき声のような、嘆きのようなそんな響きが伝わってくるだけだった。
その声を聞いていると、Tさんの胸の奥がざわつくような、言いようのない居心地の悪さを感じた。
まるで自分の知らないところで、何か悪いことが起こっているような、そんな気がした。
次の日もそのまた次の日も、Tさんが井戸に近づくとあの声は聞こえてきた。
最初は微かだったその声は、日を追うごとに少しずつ大きくなっていった。
まるで井戸の底から何かが這い上がってくるように。
そしていつしかそれは一人の声ではなく、何人もの声が重なり合って、何かを訴えかけているように聞こえるようになった。
しかし依然として、その内容を理解することはできなかった。
夜になるとその声はさらに鮮明に聞こえた。
静まり返った境内に低くうなるような、泣き叫ぶような無数の声が響き渡る。
枕元で耳を塞いでも、井戸の底から聞こえてくるような気がして、なかなか寝付けなかった。
ある夜、Tさんは奇妙な夢を見た。
夢の中の井戸は底が見えないほど深く、黒く淀んでいた。
そしてその暗闇の中で、何かがぐつぐつと煮えたぎるように渦巻いているのが見えた。
次の瞬間、その渦の中から無数の白い手が、まるで地面から生えてくる草のように、にゅっと伸びてくる。
手のひらは皆空を掴もうとして、Tさんに向かって必死に手を伸ばしてくる。
Tさんはその異様な光景に、金縛りのように動けなかった。
夢から覚めても、Tさんの背中には冷や汗がびっしょりと張り付いていた。
あの井戸には間違いなく何かがある。
そう確信したTさんは、それ以来、決して井戸の蓋を開けようとはしなかった。
近づくことさえためらうようになった。
しかし、寺の境内にある以上、完全に避けて通るわけにはいかない。
今日も用事で井戸の近くを通ると、あの声が聞こえてくる。
以前よりも大きく、そして、さらに悲痛な響きを帯びているように感じた。
Tさんはその声が一体何を求めているのか、どうしても理解することができなかった。
いてもたってもいられなくなったTさんは、その日から、毎朝と毎晩、本堂で心を込めて御経を唱えることにした。
もしかしたらこの声の主は、何らかの苦しみから解放されたがっているのかもしれない。
Tさんはそう考え、昼夜関係なく読経を続けた。
御経を唱え始めてから、何日過ぎたかわからない。
季節が少しずつ移り変わり、蝉の声が強く境内を満たすようになった頃、ふと気がつくと、あの井戸から聞こえてくる声が全く聞こえなくなっていた。
静寂が戻ってきた境内は、以前よりもさらに静かに感じられた。
Tさんは毎日欠かさず唱え続けたお経が、あの声の主を鎮めることができたのだろうかと考えた。
理由はわからなかったが、声が聞こえなくなったことに心の底から安堵した。
だが、Tさんは今も毎朝と晩の読経を、一日も欠かすことなく続けている。
あの古井戸は今もひっそりと境内に佇み、その底からはもう二度と囁きが聞こえることはないという。