大学生のKさんから聞いた話。
Kさんは大学の仲間と、夏休みに山奥にある小さな村の旅館へ卒業旅行に訪れた。
インターネットで偶然見つけたその旅館は、都会の喧騒から離れた静かな場所にあると書かれていた。
旅館に着くとKさんたちを出迎えたのは、白髪の老夫婦だった。
二人はにこやかにKさんたちを迎え入れ、Kさんたちは最上階の部屋に案内された。
部屋は古民家を改装したような造りで、窓からは手入れの行き届いた庭が見えた。
その夜、Kさんたちは地元の食材を使った美味しい料理を堪能し、温泉に入って旅の疲れを癒した。
部屋に戻り仲間と談笑していると、窓の外から何かが擦れるような音が聞こえてきた。
「なんだ今の音?」
友人のMさんが首を傾げる。
Kさんも耳を澄ましたが、すぐに音は聞こえなくなった。
気のせいだろうと、Kさんたちは再び会話に戻った。
しかしそれから数分後、再び同じ音が聞こえてきた。
今度は先ほどよりも近く、まるで旅館の壁を這い上がってくるような音だった。
誰かが外で何かしているのだろうか、でもこんな夜中に何をしてるんだろう、と疑問に思う。
するとその音が、Kさんたちの部屋の窓のすぐ外で止まった。
そして窓の向こうから、何かがこちらを見ているような気配がした。
皆で窓に視線を向ける。
窓ガラスには夜の闇が映り込んでいるのだが、その闇の中に、何か黒い影がゆらゆらと揺れているのが見えた。
影はゆっくりと形を変え、まるでこちらを見ているかのように感じられた。
「ねぇ、誰かいるのかな…?」
Sさんが小声で言う。Kさんは答えられなかった。
その影が人間のものではないような気がしたからだ。
すると、影はゆっくりと窓から離れていく気配がした。
そして再び何かが擦れるような音が、今度は遠ざかるように聞こえてきた。
Kさんたちは、その音が完全に聞こえなくなるまで、誰一人として動くことができなかった。
翌朝、Kさんたちは昨晩の出来事を老夫婦に話した。
しかし老夫婦は何も知らない様子で、首を傾げるばかりだった。
「夜中に物音がすることなんて、今まで一度もありませんがねぇ。
気のせいではないでしょうか?」
老夫婦の言葉に、Kさんたちは納得できなかった。
しかし、他に詮索することもできず、結局その日は観光に出かけた。
その日の夜、Kさんたちは早めに寝ることにした。
昨晩のこともあり、皆どこか疲れているようだった。
Kさんがうとうとし始めた頃、再び窓の外からあの音が聞こえてきた。
「ギチッ…ギチギチッ…」
今度ははっきりと、何かが壁を這い上がってくるような音だ。
音はKさんの部屋の窓のすぐ外で止まり、またしても窓の向こうから、あの黒い影の気配がした。
Kさんは布団の中で身を固くした。
すると窓ガラスに、昨日よりもはっきりと、何か白いものが貼り付いているのが見えた。
Kさんは恐る恐るその白いものに目を凝らした。
それは人の手のように見えた。
細く骨ばった、まるで窓ガラスを掴もうとしているかのような手が、ゆっくりとこちらへ伸びてきているのだ。
Kさんは金縛りにあったように動けなかった。
手はさらに伸び、今にも窓を開けようとしているかのように見えた。
その時、手の甲に何か黒い文字のようなものが彫られているのが見えた。
それは呪文のような、意味不明な文字だった。
Kさんの全身の毛が逆立った。生きている人のものではない。
その手はKさんたちの部屋の窓ガラスを、ゆっくりと叩いた。
その音に、友人であるYさんが目を覚ました。
Yさんは眠い目をこすりながら、窓の外を見つめた。
そして、貼り付いている「それ」に気づくと、一瞬で顔色を変えた。
「うわっ、なんだあれ!」
Yさんは反射的に飛び起きると、枕元に置いてあった懐中電灯を掴んだ。
そのまま勢いよく窓を開け放ち、その懐中電灯で「それ」を思い切り叩きつけた。
鈍い「ベチャッ」というような音がしたかと思うと、「それ」はまるで蜘蛛のように壁から剥がれ落ち、音もなく闇の中へと落下していった。
懐中電灯の光を追うと、森の奥深くへと消えていくのが見えた。
Kさんたちは、ただ茫然とそれを見ていた。
Yさんは震える手で窓を閉め、鍵をかけた。
「Y、お前、すごいな…」
Kさんが、驚きと感心がないまぜになったような声で呟いた。
するといつの間にかYさんの隣に立っていたSさんが、小さな声で頷く。
「うん、勇気あるね」
三人ともその場に座り込んだまま、しばらく動けずにいた。
恐怖と興奮で誰も眠れそうになかった。
結局その夜は一睡もできず、夜が明けるまで、あの不気味な体験について三人で話し合ったそうだ。