
大学生のMさんが借りたアパートの一室は、築年数はそこそこだが陽当たりもよく、広さも手頃で気に入っていた。
引っ越してきて数日は、慣れない環境の疲れもあって、特に変わったことは感じなかった。
ただ、夜中に目が覚めると、時折、壁に貼られた花柄の壁紙の模様が、ほんのわずかに揺らいで見えるような気がした。
最初は気のせいだと、Mさんは疲れのせいだろうと自分に言い聞かせた。
しかしその気のせいは、日に日に確信へと変わっていく。
壁紙の模様だけではない。
フローリングの木目もまっすぐなはずなのに、わずかに波打っているように見え始めた。
特に夜、部屋の電気を消してスマートフォンを弄っていると、暗闇の中にその歪みがより鮮明に浮かび上がる。
Mさんは目を擦り何度も瞬きをしたが、視界は変わらなかった。
ある夜、レポートに追われていたMさんは、日付が変わる頃、ふと顔を上げた。
パソコンの画面の光が、部屋の隅にあるクローゼットの扉をぼんやりと照らしている。
その扉の蝶番の部分から、黒い塊のようなものが滲み出ていることに気づいた。
それは人の形をしているわけではない。
ただ漆黒の歪んだ塊。
その塊はまるで息をするかのように、ゆっくりと膨らんだり、縮んだりを繰り返している。
Mさんの視界から、その黒い塊が消えることはなかった。
目を閉じても瞼の裏に焼き付いているかのように、その黒い歪みがちらつく。
恐怖で全身が硬直し、呼吸すらままならない。
部屋全体が、まるで生き物のように脈打ち始めた。
壁から微かに音が聞こえる。
それは壁紙が擦れるような、あるいは何かが蠢くような音。
天井からは軋むような音が響く。
それはまるで部屋そのものが、深い呼吸をしているかのようだった。
意を決して、Mさんは震える手で部屋の電気のスイッチを入れた。
パチン、という音と共に部屋は明るくなった。
すると…さっきまで確かにそこにいた黒い塊は、跡形もなく消え去っていた。
Mさんは信じられない思いで部屋を見回したが、歪んだ壁と静かな空間があるだけだった。
きっとこれは疲れてるんだ、そう思い、電気をつけたまま布団に入ったが、なかなか寝付けなかった。
次の日、Mさんは友人であるSさんに連絡し、この奇妙な体験を打ち明けた。
Sさんは心配し、Mさんの部屋を訪れることに。
Sさんは部屋に入った瞬間、顔色を変えた。
「Mさん、この部屋、なんか変だよ…壁が…」
Sさんが指差す壁には衝撃的な歪みがそこにあった。
Mさんは、自分だけが見ている幻覚ではなかったことに安堵したが、同時にこの部屋が本当に異常であるという事実に、新たな恐怖を覚えた。
Mさんはすぐに引っ越しを決意し、不動産屋に連絡した。
しかし、不動産屋の担当者は困った顔で答える。
「あのアパートの部屋は、以前から奇妙な報告が多いんです。
壁が動くとか、物が勝手にずれるとか…。
私は信じていないのですが、見える人いわく、あの部屋はもともとこの土地の境界線を無理やり通して建てられた建物でしてね。
土地の力が強すぎて、建物がそれに耐えきれずに歪んでしまう、と聞きました。
前の住人の方も、皆さん長くは住めませんでした。
あの黒い塊は土地の力が形になったものだ、なんていう話も聞きました」
Mさんは不動産屋の言葉に衝撃を受けた。
ただの歪みだと思っていたものは、土地の持つ異様な力が具現化したものだったのだ。
Mさんは二度とあの部屋に足を踏み入れることなく、すぐに別の場所へと引っ越したのだが、Mさんが新しく住む部屋の壁紙の柄を、無意識のうちにじっと見つめてしまう癖がついてしまったのは、言うまでもない。