
広告代理店に勤めるMさんが体験した話。
Mさんはいつも残業が多く、深夜にオフィスビルを出ることが日常だった。
真夜中のオフィスビルはフロアに人の気配もなく、照明も半分以上が落とされ、昼間とは全く違う顔を見せる。
しんとした廊下を歩く自分の足音だけが響くのが、Mさんにはいつも少しだけ不気味に感じられた。
ある夜、いつものように残業を終え、Mさんは疲れた足取りでエレベーターホールへと向かった。
ボタンを押すとすぐに「チン」という音と共に、目的の階にエレベーターが到着したことを知らせるランプが点灯する。
ドアがゆっくりと開くと、通常なら無機質なステンレスの壁だけが見えるはずの奥に、ぼんやりと半透明の人影が立っているのが見えた。
中にいる影はあまりにも薄く、絵のように静止していた。
Mさんは一瞬、仕事の疲れでそういうふうに見えちゃってるのか、寝ぼけてるんだろうか…と思った。
Mさんが一歩足を踏み入れると、その影はスーッと水に溶けるように消えた。
Mさんは戸惑いながらもエレベーターに乗り込み、階下のボタンを押した。
ドアが閉まると再び奥の壁に、先ほどの影がぼんやりと現れる。
それはちょうどMさんの立つ後ろ側の位置、壁にへばりつくように立っていた。
Mさんはただの目の錯覚だと自分に言い聞かせた。
しかしその日を境に、Mさんが深夜にエレベーターに乗るたびに、その影は現れるようになったのだ。
いつも同じ場所、同じように半透明な姿で、Mさんが乗り込むと消え、ドアが閉まるとまた現れる。
Mさんは次第に、エレベーターに乗るのが怖くなった。
同僚と帰る日はまだマシだったが、一人で乗る日はエレベーターホールへ向かう足が重くなった。
ある日の深夜、いつもより仕事が長引いた。
エレベーターのドアが開くと、やはりそこに影がいた。
しかし、その夜の影はこれまでと違った。
いつもより鮮明に見え、ぼんやりとしながらもその人影の顔のような部分が、Mさんの方を向いているように見えたのだ。
その瞬間にMさんの背筋に寒気が走った。
これまでただの影だったものが、まるでMさんの存在を認識しているかのように感じられたのだ。
Mさんは思わず息を呑む。影は微動だにしない。
恐怖で体が硬直し、エレベーターに乗り込むことさえ躊躇われた。
ここから階段で降りるにはあまりにも階数が多すぎた。
Mさんは意を決して、震える足でエレベーターに乗り込んだ。
影はいつものようにスーッと消えた。
ドアがゆっくりと閉まる。そして再び影が奥の壁に現れた。
その影は、Mさんのすぐ隣に立っているかのように近く感じられた。
Mさんは息を殺し、ただじっと目的の階のボタンを見つめる。
エレベーターが下降していく間、Mさんは影から目を離すことができなかった。
目を凝らせば凝らすほど、影の輪郭がはっきりしていくように感じられ、その顔のような部分が微かに微笑んでいるように見えたのだ。
Mさんは恐怖のあまり、降りる階でもないのに無我夢中で開くボタンを連打した。
エレベーターは途中の階で止まり、ドアが開く。
Mさんは一目散にエレベーターを飛び出した。
そこは知らないフロアで当然誰もいない。
しかし、Mさんはもう一度エレベーターに乗る気にはなれなかった。
Mさんはそのまま非常階段を駆け下り、汗だくになりながら地上階までたどり着いた。
その日から、Mさんは二度と深夜までオフィスに残ることはなくなった。
どうしても残業が必要な時は、どんなに忙しくても必ず誰か他の社員を捕まえ、一緒にエレベーターに乗るようにしたそうだ。