怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

黒い這い跡の尾根

Nさんは登山歴十数年のベテランだった。

地図に載らない旧道や廃尾根を歩くのが趣味で、この日も一人、誰も通らない尾根道を辿っていた。

高度はさほどではないが踏み跡も薄く、地形図とコンパスを頼りに慎重に進むルートだった。

 

昼を過ぎた頃、尾根がゆるやかに右へ折れたところで、ふと左手に分かれる細い道に気づいた。

地図には載っていない。

獣道にも見えない、妙に整った曲線を描いていて、古道のような気配があった。

Nさんは、なぜかその道に強く惹かれた。

理屈ではなく、「呼ばれている」と感じたという。

 

一歩、足をそちらに向けた瞬間だった。

視界の端で何かが動いた。

見たものは地面だった。

だが、その地面の模様がうねり、波打っていた。

黒くてぬめりのある、濃い墨を流したような…それが道の上に広がりゆっくりと這っていた。

 

そのとき、ポケットの中でコンパスが「カチン」と音を立てて止まり、同時に首にかけていたGPSの画面が真っ暗になった。

異常が起きた。

これはおかしい、そう直感したNさんは急いで来た道を戻ろうとした。

しかし、先ほどまで歩いてきたはずの尾根道が、そこにはなかった。

いや、地形としては同じだ。傾斜、木々の配置、地面の岩の形。

だが道が見えなくなっていた。

何もない藪の斜面が広がっているだけで、確かにそこにあったはずの踏み跡が、跡形もなく消えていた。

 

Nさんは混乱し、焦り、何度も回りを確認したが、コンパスもGPSも沈黙したまま。

時間だけが過ぎていく。

そして、ふと背後━━さっきの分かれ道を振り返ると、そこには黒いぬめりがまた現れていた。

這い寄るように、音もなく、ゆっくりと道を覆ってくる。

あれが何かは分からない。

ただ、近づいてはいけないという本能的な恐怖が込み上げた。

 

とっさにNさんは別の斜面へ飛び降りるようにして逃れ、数時間後、別の登山道に出ることができた。

ふもとの小屋で落ち着いたあと装備を確認すると、壊れていたはずのコンパスもGPSも正常に動作していた。

 

あのとき踏み込もうとした細道。

あの黒くうねるぬめり。

もしあのまま進んでいたら、今こうして語ることもできなかったのではないか…Nさんはそう語った。

以来、彼は「地図にない道は、呼ばれても踏み込むな」と後輩たちに必ず忠告するようになったという。

 

お題「百物語(参加型なので一人でいくつ投稿しても可)」