Bさんは、ひとりで山を歩くのが好きな人だった。
派手な山よりも、静かで人の少ない登山道を選ぶ。
その日もあまり利用者のいない山道をゆっくり登っていた。
途中でやや広くなった場所に出た。
斜面を越えた先に、一本の太い倒木が横たわっていた。
倒れてからしばらく経っているらしく、幹の表面には苔やツタが絡まり、地面に沈み込むように馴染んでいる。
ちょうどいい休憩場所に思えて、Bさんはその幹の上に腰を下ろした。
ザックを下ろし、水を飲みながら、ふと何気なく座っている場所のすぐ近くに目をやる。
倒木の中心部が裂けていた。
乾いた樹皮が割れて、そこだけ黒く口を開けたようになっている。
自然に崩れたにしてはあまりにも鋭く、内側の繊維も奇妙にほぐれている。
興味を引かれて、Bさんは身を乗り出して中を覗き込んだ。
そこには、湿ったような光沢を帯びた突起物が、密集して幹の内側にびっしりと張りついている。
そのひとつひとつが、まるで眼のような形をしていた。
丸く膨らみ、中央に小さなくぼみがあり、周囲には血管のような細い筋。
目ではない。
けれど目にしか見えなかった。
Bさんは息を呑んだ。
見間違いかと思い、少し目を凝らした。
そのとき、その中のひとつが、ぬるり、と音もなくゆっくりとこちらを向いた。
ピクリとも動かないそれらの中で、ひとつだけが確かに角度を変えた。
Bさんを見上げるように、ゆっくりと。
生きているとしか思えない、重たい気配がその穴の奥に潜んでいた。
「これはまずい」と直感が警告を鳴らした。
Bさんは慌てて立ち上がり、倒木から距離を取って、登山道を引き返すように早歩きで離れた。
するとその背後に…「ポンッ」「ボンッ」「パンッ…」と破裂音がいくつも連なって響いた。
それは幹の中から聞こえていた。
すぐに離れてよかった。もじずっと見ていたらどうなっていた事か…。
Bさんはそう思いながら、休まずに山を降りた。
下山後、もう一度だけ地図を見て確認したが、その倒木のある地点には何も記されていなかった。
他の登山者も誰もその倒木の話を知らなかった。
Bさんはそれ以来、山に倒れている木には絶対に近づかないようにしているという。