Rさんは高原の見晴らしのいい場所で、双眼鏡を使って遠くの尾根を眺めていた。
登山の途中、休憩がてら対岸の山並みを観察するのが好きだった。
空は晴れていた。
風も穏やかで、双眼鏡のレンズ越しには緑が鮮やかに広がっていた。
と、そのとき、向こうの尾根の中腹を何かが動いた。
白くて細長いもの。
木々の間をまるで雪でも滑るかのように、静かに、だが一定の速度で滑っていく。
最初は野生動物かと思ったのだが、あまりにもまっすぐだった。
蛇でもイタチでも、こんな滑り方はしない。
転がりもしないし、何より…「枝を避けていた」
双眼鏡を通していたとはいえ、確かに見えた。
斜面に伸びた枝が一本、その動くものの進路にかかっていた。
それがその直前でわずかに軌道を変えて、枝を避けるようにスッと進んだのだ。
生き物のようだが生き物じゃない。
滑っているのに傾斜の影響をまるで受けていない。
まるで意志があって、斜面の上をなぞるように移動していた。
Rさんは、そのものが尾根の向こうに消えていくまで、何もできずにただ見ていた。
翌日。
気になって仕方がなかったRさんは、確認のためにその尾根まで足を運んだ。
昨日の場所を頼りに尾根の中腹まで登っていくと、そこに跡があった。
それは一本の痕跡でも、踏み跡でもなかった。
木々の枝…それも低い位置にある太めの枝が、何本も下へ撓んだ跡になっていた。
折れてはいない。
ただ、あり得ない角度で下に曲がったまま、固まっているようだった。
誰かが、何かがそこを通って枝を押し下げていったように。
だが地面には、足跡も動物の痕跡も何もなかった。
ただ斜面に沿って一定間隔で、撓んだ枝だけが続いていた。
それはまるで「ここを通った」と証明するかのように残されていた。
Rさんはそれ以上奥に踏み込まず、引き返した。
風は昨日と同じように穏やかだったが、なぜか空気は冷たく湿っていた。
「あれは…何かの足じゃなかったと思う。
もっと…形になってないもの。
でも確かに、こっちを見てた気がするんだよね」
Rさんはそう言って、今でも登山には双眼鏡を持っていくという。
けれど…もう向こうの尾根を覗くことはないらしい。