Mさんがその山を訪れたのは、夏の終わりの午後だった。
人気のある登山道ではなく、地元でもあまり人の通らない古い尾根道と呼ばれるルートだった。
細く曲がりくねった道を登っていたときのこと。
ふと、足元がふわっと軽く持ち上がったような違和感を覚えた。
風か地盤のゆるみかと思ったが、奇妙なのは、その浮く感覚が一度では終わらなかったこと。
もう一歩踏み出すたびに…地面が、何かを押し返してくるような、妙な反発を感じる。
Mさんは立ち止まり、目を凝らして足元を見た。
土の表面に生えた苔や枯れ葉が、ゆっくり…本当にゆっくりと上下に揺れていた。
「呼吸してる?」
そんな馬鹿な、と思いながらも目の前で確かに、地面全体が吸って吐いているように膨らんだり縮んだりしていた。
波打つというよりは、まるで巨大な生き物の背に立っているかのような感覚。
鳥のさえずりも消え、風も止まり、音一つない無音の中で、その地面の呼吸だけが静かに続いていた。
背中に冷たい汗がにじむ。
Mさんはできるだけ音を立てず、足元を刺激しないよう、そろりそろりと後ずさるようにその場を離れた。
駐車場に戻ったときにはすでに夕方になっていた。
車に乗ろうとして靴を脱いだとき、違和感に気づいた。
靴底に何かがびっしりと貼りついている。
それは苔でも泥でもなかった。
乾いてざらついた半透明の膜のようなもので、光にかざすと、細かい繊維のようなものが無数に絡み合っていた。
まるで何かの粘膜が、乾いたあとに残る痕跡のように思えた。
洗っても洗っても…その靴底のざらつきだけは、どうしても取れなかったという。