秋も深まった頃、Tさんは大学時代の友人たち、Sさん、Mさん、Kさんの四人と、久しぶりの再会を兼ねて山奥の温泉旅館へ泊まりに行った。
その宿は築八十年を超える古い木造三階建てで、山の斜面に寄り添うように建てられていた。
廊下は長く、夜になると外の街灯も届かず、ほの暗い非常灯の明かりだけが頼りだった。
その夜、夕食と温泉を満喫した一行は、それぞれの部屋に戻り、夜更けまで談笑した。
やがて日付が変わる頃、酒の回ったKさんとMさんは眠りにつき、SさんとTさんだけが、布団に入りながらも外の風の音や古い建物の軋む音をぼんやりと聞いていた。
午前一時頃。
ふと喉が渇いたTさんは、廊下にある共同の給湯室まで行こうと襖を開けた。
その瞬間、数メートル先の廊下を、ゆっくりと歩く人影が見えた。
背は高く、全体が黒く沈んでいて、顔や服の形すら判別できない。
ただ歩く音はしないのに、すっと影だけが滑るように進んでいく。
影は廊下の突き当たりにある角を曲がって姿を消した。
Tさんは思わず「あれ、こんな時間に誰だろう」と思い、給湯室に行くついでに、その角の向こうを覗いてみた。
しかし…。
角の先は短い廊下になっており、その突き当たりには大きな窓があった。
窓の向こうは外で、闇に沈んだ山の斜面と遠くの谷が見えるだけ。
そこに先ほどの黒い影が、外向きにじっと立っていた。
肩が少し上下しているように見えたが、風のせいかはわからない。
人間のはずなのに、ガラス越しでも目が合ったような感覚がして、Tさんは背中を冷たいものが走るのを感じた。
息を飲み足が動かなくなる。
そのまま数秒後、瞬きをした瞬間…影はもういなかった。
翌朝、朝食の席でTさんはそのことを皆に話した。
笑いながらも興味を持ったSさんたちは、同じ場所を見に行った。
しかし、窓の外には足場などなく、そこは三階で人が立てるような場所ではなかった。
下は急な斜面で落ちれば真っ逆さまだ。
Tさんは昨夜見た黒い影の輪郭や、あの目が合った感覚を鮮明に思い出し、胸の奥に重いものが沈むのを感じていた。
あれはただの生きてる人ではない…そう確信せざるを得なかった。