釣り好きのKさんは、同じ趣味を持つSさん、Tさんと三人で、山間の川沿いにある古い旅館に泊まる計画を立てた。
その川は昔から、鮎やヤマメがよく釣れることで知られていたが、近年は人も少なく、夜になると水の音だけが谷に響く静かな場所だという。
宿は木造二階建てで、川に面した部屋の縁側からは、流れの早い川面がすぐ目の前に見える。
昼間は心地よいせせらぎと冷たい風が心を落ち着かせ、三人は夕食後も酒を酌み交わしながら翌日の釣りの話で盛り上がっていた。
夜更け、他の二人が布団に入った後も、Kさんは縁側で川の音を聞いていた。
虫の声はなく、ただ水音と、時折吹く風が木の葉を揺らす音だけが耳に届く。
川面は月明かりを反射して銀色に揺れ、対岸は黒く沈み木々の影が重なっている。
そのときだった。
対岸の闇の中から、すっと赤いものが水面に現れた。
細長く、指が五本ある腕だった。
皮膚というより血に濡れたような生々しい赤色で、肩のあたりから先だけが、滑るように水面を横切ってくる。
Kさんは息を呑み体を硬直させた。
腕は波立つこともなく、水に沈むこともなく、ただまっすぐこちらの縁側へ向かってくる。
距離が縮まるにつれ、指先がわずかに動いているのが見えた。
慌てて縁側から部屋へ引き返し、障子を閉めて布団に潜り込む。
胸の鼓動がうるさいほどに響き、しばらく眠れなかった。
翌朝、まだ薄暗いうちに目を覚ましたKさんは、恐る恐る縁側に出て川を見下ろした。
対岸の川岸から、こちらの宿の前あたりまで、赤い筋のような跡が点々と続いていた。
水面ではなく川縁の岩の上に。
まるで、あの腕が這い寄ってきた道筋を示しているかのように。
SさんとTさんを呼んで見せたが、二人は「ペンキか何かじゃないか」と取り合わなかった。
しかしKさんの胸には、昨夜見た赤い腕の映像がまだ生々しく残っていた。
あれは魚影でも漂う枝でもない。
生きてる人間のものでもない。
川のせせらぎは、朝の光の中で一層澄んで聞こえていたが、Kさんにはその音の奥に、かすかな水を掻くような音が混じっている気がしてならなかった。