登山が趣味のKさんは、仲間のSさん、Tさんと三人で沢登りをする計画を立てていた。
その沢は県内でも静かな山奥にあることで知られ、観光客は少ない。
苔むした岩と冷たい水の音だけが続く、まさに自然そのものの景色だ。
昼を過ぎ、沢は両側を切り立った岩壁に挟まれた狭い道に変わった。
水は澄んでいて底まで見えるのに、どこか冷気を帯びた空気が流れ込んでいる。
言葉少なに歩いていた三人は、先を進むとき、ふとKさんが足を止めた。
水の向こう、岩場の影に何かが立っていた。
人影のようだが輪郭ははっきりしない。
黒い影が岩にぴたりと張り付くようにして立っており、腕が異様に長い。
肩から垂れるそれは、まるで濡れた布のようにも見えた。
「人…?」
Sさんが呟いたが、その声に反応する気配はない。
ただ、頭らしき部分がゆっくりこちらを向いたような気がした。
だが顔は見えない。
真っ黒な塊に、ただ二つの穴が空いているように見えた。
Kさんは慌てて防水カメラを取り出し、シャッターを切ろうと構えた。
その瞬間だった。影が音もなく、すっと水に沈んだ。
波紋ひとつ立たないまま、そこにいた痕跡さえ残さずに。
三人は駆け寄って岩場を覗き込んだが、澄んだ水の底には何もない。
砂利と転がった石だけ。魚影すらいなかった。
「…見たよな、今の」
Tさんの声は震えていた。Kさんも頷く。
ただの人間なら、あんな沈み方はしない。
それに、あれだけ腕が長い人間なんているはずがない。
帰り道、三人は何度も後ろを振り返った。
けれど、沢沿いには何もいない。
ただ、沢の流れに混じって、時おり不明瞭な音がした。
水音にかき消されるような、低く長い声。
その後、Kさんは撮った写真を確認したが、影は写っていなかった。
代わりに、水面に沿って並んだ黒い点のようなものがあった。
よく見ると、それは指先のように曲がっていて…数えたら、十本以上あったという。
今でもあの沢に行くと、岩場の影に黒い何かが立っていることがあるらしい。