怖い話と怪談の処

あなたが今読んだその話、本当に「作り話」だと言い切れますか?

谷に這う白いもの

Kさんがその山に入ったのは、梅雨明け直後の蒸し暑い日だった。

標高はそれほど高くないが、谷が深く、地形のせいで霧が出やすい。

地元の登山者の間では「霧の日は谷を覗くな」と言われているらしいが、Kさんはそんな迷信を気にするタイプじゃなかった。

 

ある程度登り、谷に沿って伸びる細い登山道を歩いていたとき、霧が急に濃くなった。

視界は十メートルもない。

谷底は白く霞んでいて、風もなく音もない。

Kさんはふと立ち止まり、谷の方を覗き込んだ。

そのとき、岩肌を這う白いものが見えた。

布だろうか、それとも誰かが落としたテントの一部か、目印のロープだろうか。

だが、風はないのにそれはゆっくりと動いていた。

滑るように谷底を這っている。

手や足はない。

ただ白くて細長い何かが、確かに生きているように動いていた。

 

Kさんはザックから双眼鏡を取り出し、それを覗いた。

レンズ越しに見えたそれは、ただの布ではなかった。

表面にうっすらと目のようなものが並んでいた。

左右に並んだ目が、どれも濁ったような色をしていて、そのうちの一つがKさんの方を向いた。

目が合った。そう思った瞬間、Kさんは双眼鏡を落とした。

谷底に響く金属音が、霧の中に吸い込まれていった。

 

その後、それは見えなくなった。

霧がさらに濃くなり、谷底は白い壁のようになった。

Kさんは足を早めて山小屋まで登り、誰にもその話はしなかった。

 

翌朝、山小屋で一緒になった登山者の一人がこう言った。

「昨日、谷に降りたんだけどさ。変なもん見たよ。

木に白い布が巻きついててさ。

誰かの目印かと思ったけど、近づいたら…なんか、動いてた気がするんだよね。

風もないのに、ゆっくりと」

Kさんは黙って聞いていた。

その登山者が見た布は、きっと昨日の何かだ。

 

Kさんはその後、何度か同じ山に登ったが、谷には近づかなくなったそうだ。