Tさんがそのものを見たのは、残業帰りに団地の前を通ったときだった。
街灯の明かりがまだらに伸びる古い集合住宅。
窓の多くはすでに暗く、人影もほとんどなかった。
ふと見上げた屋上、そこに黒い猿のようなものがいた。
手すりにぶら下がるようにして揺れている。
だがそれは普通の猿ではなかった。
顔が逆さまで、目が顎のあたりにあり、口が頭頂部に裂けていた。
口はだらりと開き、時折カクンと揺れるたび、黒い影の奥に赤いものがちらりと覗く。
さらに奇妙だったのは腕の数だった。
左右の腕に加え、胸の中央からもう一本、長い腕が突き出ていて、それで鉄柵をつかんでいる。
その指はやけに細長く、節ごとに不自然に折れ曲がっていた。
Tさんは思わず立ち止まった。
Tさんが凝視していると、不意にその逆さの顔がこちらを向いた。
頭頂部にある大きな口が、まるで笑うように横に裂けて開き、赤黒い奥が見えた。
次の瞬間、三本の腕が同時にぐんと伸び、猿のような体は壁に貼りつくように姿を消した。
驚きのあまりしばらく団地の屋上を見上げ続けたが、それ以上動くものはなかった。
翌朝、同じ場所を通ると、屋上の手すりの一部がひしゃげたように曲がっていた。
まるで何かがそこに重くぶら下がっていたかのように。
Tさんは以来、団地の前を通るたびに無意識に視線を上に向けてしまう。
あれがまた、手すりにぶら下がっているのではないかと確かめずにはいられないのだという。