山間の古びた旅館に泊まったKさんは、その夜、布団に入ってもなかなか眠れなかった。
木造三階建ての建物は、夜になると板の軋む音や風の通り抜ける音がよく響く。
時計を見るとすでに深夜を回っていた。
喉が渇いたのと、ついでに用を足そうと部屋を出て廊下に出た。
廊下は薄暗く、夜用の小さな灯りが等間隔に点いているだけだった。
足音を気にしながら歩いていると、ふいに前方から人影が近づいてきた。
浴衣姿の女性だった。
旅館に泊まっている他の客だろうと思い、Kさんは軽く会釈した。
女性は無言でそのまま通り過ぎていった。
しかし、すれ違った直後、Kさんは妙な違和感に気づいた。
自分の足音だけしか聞こえない。
さっきすれ違った女性の足音が、一切聞こえていなかったのだ。
慌てて振り返ると、廊下には誰の姿もなかった。
廊下は一本道ですぐには曲がり角もない。
にもかかわらず、女性の姿はどこにも見当たらなかった。
胸騒ぎを覚えたKさんは足早にトイレを済ませ、部屋へ戻った。
眠れないまま夜を明かし、翌朝、朝食のときに女将へさりげなく尋ねた。
「昨日は他にお客さん、泊まっていましたか?」
女将は首をかしげ、不思議そうに答えた。
「いえ、昨日からお客様はお一人だけでございますよ」
その瞬間、昨夜すれ違った浴衣姿の女性の顔を、Kさんは思い出そうとした。
だが不思議なことに、表情が全く思い出せなかった。
ただ、自分に会釈も返さず、無音で歩いていたその姿だけが、鮮明に脳裏に残っていた。