
山奥にある古い温泉旅館に泊まったYさんは、夜更けにふと目が覚めた。
せっかくだからと、大浴場に一人で入りに行った。
廊下はしんと静まり返り、外の虫の声だけがかすかに聞こえる。
脱衣所を抜け浴場に入ると、思いのほか湯気が濃く、視界が白く霞んでいた。
誰もいないと思っていたが、湯船の中央にすでに誰かが肩まで浸かっているのが見えた。
背中をこちらに向けていて、髪が長いのか、その人の周りが黒い影のようになっている。
「こんばんは」
軽く声をかけてみたが、その人物はぴくりとも動かない。
無視されたような気がして、Yさんは仕方なく洗い場へ向かった。
そのとき、急に湯気がさらに濃くなり、目の前が真っ白になった。
なんだこの湯気は、と珍しい光景に驚いていると、数秒後、白いもやが薄れていった。
先ほどの人に今の事で話しかけようと見てみると、湯に浸かっていたはずの人影が消えていた。
「えっ…?」慌てて湯船を覗き込み、沈んでいないか確かめた。
しかし水面は静まり返っており、波紋一つない。
沈んだ痕跡も、湯気の向こうに出ていった様子もまるでない。
どう考えても出入り口を通らずには不可能だ。
あれほど濃い湯気の中では足元なんて見えないし、もし人が動けば水音や足音が聞こえるはず。
だが音は何も聞こえなかった。
狐につままれたような気分になりながらも、せっかく来たのだから、とYさんは湯に浸かった。
身体をじっくり浸かったのだそうだ。