
これは大学生のWさんが経験した話。
Wさんは友人たちと沢登りを楽しんでいた。
夏の午後、木漏れ日の中で休憩を取っていたとき、どこからともなく、かすかな楽器の音が耳に届いた。
木々のざわめきや沢の水音に混じりながらも、不思議とはっきりと心に残る旋律だった。
古風で、どこか懐かしさを帯びている。
その音は時に笛の澄んだ響きのように聞こえ、また時には弦を爪弾くような余韻をまとっていた。
しかし、楽器を奏でている人影はどこにも見えなかったが、彼らは再び歩き始めた。
だが、その音色は途切れることなく続き、まるで彼らの後を追いかけてくるようだった。
立ち止まると音も止み、歩き出すと再び旋律が流れる。
偶然にしてはあまりにも不自然で、同行していた友人たちも互いに顔を見合わせた。
やがて彼らは不気味さに耐えきれなくなり、一目散に山を下りることにした。
山を離れるにつれて音色は弱まり、やがて完全に途絶えた。
胸の奥に残るのは安堵と、説明のつかない恐怖だった。
後日、Wさんは気になって山で鳴っていた音を調べてみたという。
すると、民俗学の資料に「この世に存在しない楽器の音」とされる記録を見つけた。
笛にも弦にも似て、しかし正体のない旋律。
それは古くから山で迷った者を惑わす音の怪として語られていたらしい。