
これは登山愛好家のYさんが体験した話である。
会社勤めの傍ら、一人で山を歩くのが趣味だったYさんは、その日、地元に新しく整備された低山の登山道を試そうと、早朝から山に入った。
空模様は悪くなかったが、山に足を踏み入れて間もなく、どこからともなく深い霧が立ち込めてきた。
視界はあっという間に白に閉ざされ、足元の道さえ心許なくなる。
頼りの登山道のマーカーも見失い、Yさんは胸の内に不安を覚え始めた。
そのときだった。
霧の奥に人影が浮かび上がったのだ。
小柄な体つきで、古びた山仕事の服を身につけているように見える。
その人物を仮にAさんと呼ぼう。
Aさんは無言のまま片手を上げ、ある方向を指し示していた。
遭難しかけたところを助けられたのかもしれない…そう思ったYさんは、その指差す方へと歩を進めた。
だが、歩くにつれ道は荒れ、踏み跡もおぼつかなくなっていく。
嫌な予感を覚えたYさんが振り返ると、Aさんはまだ同じ場所に立っていた。
霧が顔を隠しているのに、不思議と「見つめられている」感覚だけは強烈に伝わってくる。
そして気づいた。
Aさんの立つ場所に足場がない。
膝から下が、霧に溶け込むように消えていたのだ。
血の気が引いたYさんは反射的に立ち止まり、身動きが取れなくなる。
するとAさんはまた腕を持ち上げ、今度は別の方向をゆっくりと指差した。
だがそこも、どこか異様な気配が漂っていた。
進めば命を落とす…Yさんは直感し、その場にしゃがみこんで目をつぶった。
どのくらい経っただろう。
恐る恐る目を開けると、霧はすっかり晴れていた。
安堵の息をつきながら先ほどAさんの立っていた場所を見やると、そこは切り立った崖だった。
そしてAさんが指し示していた先もまた、深い谷へと続いていた。
もし言われるがままに進んでいたら、確実に足を踏み外していただろう。
Yさんは背筋を冷たい汗が流れるのを感じながら、山を下りた。