怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

本堂で読経中に聞こてくる音

都市部の寺で修行をしている若い僧侶、Eさんから聞いた話。

 

Eさんがその寺に入ったのは、春先のことだった。

古いが手入れの行き届いた本堂は、朝の冷たい空気の中で、かすかに線香の香りを漂わせている。

毎朝の勤行はまだ薄暗い時間に始まる。

外の通りの音も届かず、ただ木魚と読経の声だけが響く静かな時間だった。

 

ある朝、読経の最中に妙な音がした。

衣擦れのような、柔らかく擦るような音。

それは本堂の隅━━柱の影になった場所から、かすかに聞こえてくる。

最初は風で何かの音かと思ったが、毎朝決まって同じ場所から聞こえてくるのだ。

Eさんは不思議に思い、読経を終えたあとでその隅を調べてみた。

すると畳の一枚だけが、まるで長い間そこに誰かが座っていたかのように、わずかに凹んでいた。

後で年配の僧に尋ねてみると、そこは先代の住職がいつも座っていた場所だという。

「亡くなる前まで、朝の読経は欠かさなかった方でね」

そう聞かされたEさんは何となく納得した。

 

だが、それからも音は止まなかった。

むしろ、日を追うごとに衣擦れの音は鮮明になっていった。

経を読む声を止めると、ぴたりと音も止む。

そして再び読経を始めると、すぐ傍らから擦れるような音が返ってくる。

まるで、誰かが一緒に聞いているかのようだった。

最初はEさんは背筋が冷たくなる思いをしていたのだが、不思議とその音は恐ろしくはなかった。

 

それから数週間。

ある朝、Eさんが声を出した瞬間、あの衣擦れの音がしなかった。

本堂はいつもよりもしんと静まり返っていた。

経を読みながら何かが足りないような、ぽっかりと穴が開いたような感覚に包まれたという。

「音がしない朝は、逆に落ち着かないんですよ」

Eさんはそう言って少しだけ寂しそうに笑った。

 

以来、彼は毎朝、読経の前にそっとその畳の凹みに向かって合掌をする。

あの衣擦れの音が再び戻ってくることは、まだないそうだ。