
この話は、都内のあるオフィスビルで働くMさんが体験した出来事。
そのビルは築二〇年以上経っており、外観こそ改装されていたが、内部の一部には古いままの場所も多く残っていた。
特に五階の廊下は妙に長く、昼間でも照明が弱く感じるほど薄暗かったという。
ある夜、Mさんは残業中に資料をコピーするため、奥の複合機まで歩いていった。
廊下の蛍光灯がところどころ切れており、白く照らされた床が途切れ途切れに浮かんでいる。
その一番奥、暗がりの中に━━人のような影が立っていた。
最初は同じフロアの誰かだと思った。
しかし、いくら目を凝らしても顔がはっきり見えない。
コピーを取りに行く途中、気味の悪さを振り払うようにMさんは歩を進めた。
けれど数歩近づいた瞬間、ふっとその影が消えた。
まるで霧が晴れるように、誰もいなくなっていた。
気のせいだろうと自分に言い聞かせ、コピーを済ませて戻ろうとしたとき、背筋が凍りついた。
廊下の先、さっきまで自分が立っていたあたりに、人影が見えたのだ。
今度は動かない。
こちらを向いているようで、顔は暗がりに沈んでいた。
なぜか視線だけがはっきりと感じ取れた。
Mさんは息を殺し、目を逸らさずに後ずさった。
一歩下がるたびに蛍光灯が「パチッ」と鳴って、光が微かに瞬く。
そのたびに影の輪郭がわずかに揺れ、黒い靄のように形を変えているようにも見えた。
けれど決して近づいてはこない。
ただ、じっとこちらを見ていた。
ようやく自席に戻ったときには、汗で背中がびっしょりだったという。
誰もいないはずのフロアで、空調の音だけが耳に残っていた。
翌朝、気になったMさんは防犯担当に頼み、監視カメラの映像を確認してもらった。
映っていたのはコピーを取りに行く自分だけ。
だが、廊下の端━━あの影がいた場所にだけ、白いノイズがちらついていた。
波のように揺れる映像の中で、ノイズが一瞬、人の形を作ったように見えたという。
その後も夜になると、あの廊下では「人の視線を感じる」と話す社員が何人も現れた。
けれど、誰も確かめに行こうとはしない。
なぜなら━━もし行けば、自分のいた場所に誰かが立つことを、Mさんがもう体験しているからだった。