ツーリングが趣味のSさんが体験した、夏の夜の出来事。
その日、Sさんは仕事帰りに遠回りして、昔使われていた旧道の峠を越えて帰ることにした。
街灯もほとんどなく車の通りもない。
アスファルトはところどころひび割れ、道端には草が生い茂っている。
それでも山の空気がひんやりして気持ちよく、ヘッドライトの白い光が闇を切り裂く感覚が好きだった。
峠の頂上に差しかかったあたりで、Sさんはブレーキを軽く握った。
視界の先、カーブの外れに小さな祠があった。
古びた石造りで周囲には誰もいない。
だが、その祠の前に何かが立っていた。
黒い人影。
まるで霧が人の形を取ったように、輪郭がはっきりしない。
ヘッドライトに照らされても、光を吸い込むように真っ黒で顔も服も見えない。
人が立っているのではなく、人の形をした影そのものがそこに存在しているようだった。
スピードを落としながら近づくと、その影は動かないまま、真っ直ぐこちらを向いていた。
風もないのに、空気がざらつくような感覚が肌に刺さる。
ヘルメットの内側で息が荒くなり、Sさんは思わず視線を逸らした。
すれ違う瞬間、祠の方から「カラン」と小石の転がるような音がした。
反射的にミラーを覗くと、そこにはまださっきの黒い影が立っていた。
いや、立っているというよりこちらを見ている。
ミラー越しにその影の輪郭がゆっくりと歪んだ。
まるで首をねじるように、こちらへと振り返るような動きを見せたのだ。
Sさんは慌ててアクセルを回し、バイクを加速させた。
後ろを見たら駄目だという直感が、背筋を貫いた。
峠を抜け街灯の明かりが見え始めたころ、ようやく息を吐いた。
鼓動がまだ速い。
ヘルメットの中で汗が滲み、手が震えていた。
やっとの事で家にたどり着き、自宅の駐車場にバイクを停めエンジンを切った瞬間、ふと違和感を覚えた。
ヘッドライトのレンズ━━そこに黒い指の跡のような汚れがついていた。
まるで何かが触れたように。