まだ夏のMさんたち三人が、T県の山間にある渓谷へ出かけたときの体験。
その渓谷は観光地というよりも、地元の人でもあまり近寄らない場所だった。
細い山道の先にある古びた吊り橋は、木の板が軋み、足元の隙間から谷底が見えるほど深い。
立ち昇る湿気と体に張り付くような暑さの中、下を流れる川の音が声を遮るくらいに音を立てていた。
その日は曇り空で、午後になると霧が立ちこめてきた。
川面のあたりから白い靄が立ち上り、吊り橋の下を流れる水面が見えなくなる。
風もないのに霧はゆっくりと流れ、谷全体が白く包まれていくようだった。
橋の近くまで来たとき、友人のひとりが足を止めた。
「…今、動いたの見えたか?」
彼が指さす先、吊り橋の下の濃い霧の中で白いものが揺れていた。
最初は、木の枝か何かが垂れ下がっているのだろうと思ったのだが、よく見ると風は吹いていないのに、それは一定のリズムで揺れている。
Mさんが目を凝らした瞬間、息が止まった。
それは逆さになった人の形をしていた。
腕のようなものが垂れ下がり、長い髪のような白い影が霧の中で揺れている。
顔は見えない。
ただ吊り橋の板のすぐ下あたりに、逆さまになってぶら下がっているように見えた。
誰かが落ちたのか。
それとも…。
三人は言葉を失ったまましばらく立ち尽くした。
その白いものはゆっくりと左右に揺れ続けていたが、やがてそのまま谷の下へ、沈むように消えていった。
次の瞬間、橋の下からひやりとした湿った風が吹き上がった。
まるで谷の底から何かが吸い上げるように。
それが頬に当たった瞬間、Mさんは背筋が凍るのを感じた。
生ぬるいはずの風が、氷のように冷たかったのだ。
慌てて三人は着た道を引き返す。
橋からはある程度離れてから振り返ると、吊り橋の向こう側は霧に覆われ、もう何も見えなかった。
その夜、宿に戻ってからMさんたちは地図を広げ、あの谷について調べてみた。
だが、名前の載った観光地図にも地元の登山道案内にも、その吊り橋の記載はどこにもなかった。
古い地元誌を見ても、霧谷という地名すら存在していなかったという。
もしあの橋を渡っていたらどうなったことか…Mさんはそう呟いた。