KさんがN県の山中を走っていた時の体験。
その日は仕事の関係で、山を越えた先の町まで車で移動していた。
予定よりも遅くなり、峠に差し掛かる頃には夜になっていた。
霧が出始めたのは、ちょうど山の中腹を走っている時だった。
街灯はなく車のヘッドライトだけが頼り。
霧が濃くなるにつれ、ライトの光が白く散って前が見えづらい。
それでもゆっくりと進んでいると、カーブの先に淡い光が見えた。
最初は対向車かと思ったが、ライトの位置が車とは違う。
しかも光は一点ではなく、柔らかく周囲を照らすように広がっている。
懐中電灯のような直線的な明かりではない。
提灯かランタンのような光だった。
人が歩いているのだろうか。
だがこの時間に、しかもこんな山奥で人影を見たことなどない。
Kさんは速度を緩め、慎重にカーブへ近づいていった。
ところが、距離があと少しというところでその灯りがふっと消えた。
まるでスイッチを切ったように、光は跡形もなく闇に溶けた。
不思議に思ったKさんは車を路肩に寄せて停め、懐中電灯を手に車を降りた。
霧の中は音一つない。
虫の声も風の音もなく、ただしんと静まり返っている。
自分の靴音だけが土を踏む音を立て、霧の中に吸い込まれていく。
光が見えたあたりを照らすと、そこはちょうど森の入口になっていた。
黒く湿った木々が立ち並び、霧が枝の間を流れている。
足元には人の通ったような細い獣道があった。
Kさんはその先をライトで照らした。
…その瞬間、息を呑んだ。
霧の向こうを大きな黒い影が横切ったのだ。
それは犬よりもずっと大きく、狐のような長い尾を持っていた。
黒い毛並みが霧の光に鈍く光り、すぐに森の奥へと消えていった。
まるで霧そのものをまとっているような動きだったという。
Kさんは全身の毛が逆立つのを感じた。
こんな山奥であんな大きな動物がいるだろうか。
熊ではない。
足音もなく地を滑るように動いていたのだ。
恐怖に駆られ急いで車に戻ると、ドアを閉めた瞬間、窓の外で何かが動いた気配がした。
霧の中、ライトに照らされた木々の影がゆらりと揺れる。
するとフロントガラスの端━━ほんの一瞬だけ、あの淡い灯りが再び点いた。
霧の向こう、木々の隙間にぼんやりと浮かぶ橙色の光。
しかし今度は動かない。
まるでこちらを見つめるように、静かに灯っていた。
Kさんはアクセルを踏み込んだ。
タイヤが砂利を跳ね上げ、車は霧の中を抜けるように走り出した。
バックミラーにはもう灯りは見えなかった。
町に下り、コンビニの明かりが見えた時、ようやく息をついたという。
後日、その話を地元の人にしたところ、昔、夜の山道で提灯の明かりを見かけると、狐が人を迷わせる前触れだといわれていたそうだ。
光を追うと、二度と戻れなくなる━━と。
Kさんは「もし、あの時車を降りてもう一歩進んでいたら」と今でも思うことがあるらしい。
あの灯りはただの自然現象だったのか。
それとも霧の中で人を導く何かだったのか━━。