Kさんが勤めていたのは、T県の山あいにある古い旅館だった。
木造二階建てで昔は賑わっていたらしいが、今は観光客も減り、常に宿泊客がいるわけではなかった。
その夜も吹雪が強まり、予約していた客が全員キャンセルしたため、館内にはKさんと女将の二人しかいなかった。
暖房の効きが悪く、建物全体が時折「ミシッ」と鳴る。
古い木の骨組みが風に軋む音が、まるで誰かが廊下を歩いているように聞こえるのだ。
その日は昼から倉庫の棚を整理していた。
旅館の奥にあるその倉庫には古い布団や欠けた食器、もう使われていない看板などが積まれている。
「明日でいいですよ」と女将は言ったが、Kさんは天気が悪くて客もいないからと、夜遅くまで一人で片付けを続けていた。
時計を見るとすでに深夜一時を回っている。
外は真っ白で窓に叩きつける雪の音が、まるで何かが這うように聞こえた。
その時だった。
「ドン…ドン」
旅館の奥、つまりさっきKさんがいた倉庫の方から音がした。
最初は風で木が軋んだのだろうと思っていたのだが、二度、三度と同じ間隔で鳴る。
「…誰かいるのか?」思わず声を出したが返事はない。
女将が起きてくる気配もなかった。
恐る恐る懐中電灯を手に倉庫の前まで歩く。
古びた引き戸は鍵をかけていない。
中は片付けたばかりだから誰もいないのは分かっている。
息を呑み扉に耳を当てると━━。
「…ドン」
扉の中から叩かれた。
体がびくりと跳ねる。
反射的に一歩後ずさると、扉の下の隙間に何かがあった。
白く細いものが、ゆっくりと動いている。
それは指だった。
人間のものに見えるが、妙に長く節が多い。
凍りついたようにKさんが見つめていると、その指はスッと隙間の向こうに引っ込んだ。
次の瞬間、風もないのに扉がカタリと揺れた。
Kさんは逃げるように倉庫を離れ、女将の部屋の前まで走った。
起こそうか迷ったが、何をどう説明すればいいのか分からない。
「風のせいだ、きっと風で木が…」自分に言い聞かせながら部屋へ戻り、布団に潜り込んだ。
しかし、まぶたを閉じてもあの白い指が頭から離れない。
やがて廊下の奥から再び、かすかに音がした。
ドン…ドン…。
Kさんは明け方まで一睡もできなかったという。
翌朝、雪は止み、外は一面の銀世界だった。
恐る恐る倉庫の前に行ってみたが何も音がしない。
ゆっくりと扉を開け中を覗いたが、とくに何も変わった事は無かったそうだ。