Sさんがその古い貸家に越してきたのは、春の終わりごろだった。
仕事の都合で都会から地方へ移ることになり、最初は試しに短期間だけ借りるつもりで、不動産屋に紹介されたのがその家だった。
築六十年ほどの木造平屋で、庭には梅の木が一本、そして古い濡れ縁がついている。
周囲は田畑に囲まれ、夜になると虫の声以外は何も聞こえないほど静かだった。
初日は荷解きに追われ、夕方にはどっと疲れてしまった。
翌日の夜、ようやく落ち着いた気持ちになり、缶ビールを手にして濡れ縁に腰を下ろした。
月は薄く雲に隠れ、庭の草がわずかに風に揺れている。
「こういう静けさも悪くないな」と思いながら、虫の声に耳を傾けていると━━。
…コン、コン。
何かが木を叩くような音がした。
最初は雨粒でも落ちたのかと思ったのだが、空を見上げても雲は厚くない。
しばらくすると、「ズザッ…」と土がこすれるような音が、縁側の下から聞こえてきた。
猫か何かが入り込んだのかと思い、Sさんは懐中電灯を取りに行った。
戻って縁の下に光を当てた瞬間、息が止まった。
暗がりの奥、土の中に何かがいた。
なんだろう、とライトを向けた時、それが顔のように見えた。
人の顔━━ただし、泥でまみれで濡れている。
輪郭はぼやけているのに、目だけがはっきりと開いてこちらを見ていた。
反射的にSさんは声を上げ、懐中電灯を落とした。
その瞬間、ぬるりと動く気配がして、白い顔はゆっくりと土の中に引っ込んでいった。
「うわっ!」
恐怖に突き動かされるように立ち上がり、Sさんは急いで家の中に逃げ込んだ。
ガラス戸を閉めると急いで鍵をかけ、カーテンを引き、部屋の中でしばらく静かにした。
だが、物音がぱったりと途絶えたため、なるべく音を立てないようにして寝室へ向かい眠ることにした。
とはいえ恐怖心もあったので、その日は電気をつけたまま横になった。
いや、正確にはほとんど眠れなかったのだ。
時折、縁側の方からミシッという木の鳴る音がして、そのたびに体がこわばった。
やがて夜が明け、ようやく外が明るくなった頃、恐る恐る縁側へ出た。
そこには信じられない光景があった。
縁の下の土の表面に、手形がいくつも残っていたのだ。
小さな手━━まるで子供のような手形が、泥の中にずらりと並んでいた。
乾きかけた土の色がまだ新しい。
数は十や二十ではない。
まるで、そこに何人もが這い出ようとした跡のようだった。
「子供…なのか?」
そう思ってしゃがみ込んだ瞬間、ふと風が吹いた。
木の枝が揺れ「ひゅう」とかすかな音が縁の下から漏れてきた。
耳を澄ますと、土の奥から何かを囁くような声が聞こえた気がした。
背筋が凍りつき、Sさんは立ち上がって家の中へ駆け戻った。
その日、すぐに不動産屋へ連絡を入れ、2日後には荷物をまとめて別の場所に出て行ったという。