Tさんは四十代半ばの男性で、県外から山あいの町へ転勤してきた。
職業は陶芸関連のデザイナー。
新しい取引先の工房に常駐することになり、半年ほどの滞在予定で借りたのが、古民家を改装した貸家だった。
築七十年ほどの木造平屋で外観は趣があり、玄関先の石灯籠や広い土間が印象的だった。
ただ、部屋の中には少し湿気がこもっており、夜になるとどこからか古い木の匂いが漂ってきた。
最初の数日は慣れない生活に追われていたが、五日目の夜、Tさんはふと違和感を覚えた。
寝室にしていた和室の隅━━押入れのふすまの隙間から、うっすらと光が漏れているのだ。
月明かりではない。
黄色っぽく、まるで小さな電球のような淡い光。
最初は隣家の照明が差し込んでいるのかと思ったが、この家の周囲には他に民家はない。
不思議に思い、Tさんは懐中電灯を手に押入れを開けた。
中は普通の押入れに見える。
布団をどかして奥を照らすと、縁の部分にわずかな段差があるのに気づいた。
板を少し持ち上げてみると、そこに小さな穴が開いていた。
直径二〇センチほどの丸い穴。
その中から確かに淡い光が漏れていた。
覗き込むと、穴の奥には一枚の鏡が立てかけられていた。
曇りガラスのように古びていて、ところどころ黒ずんでいる。
Tさんは懐中電灯の光を鏡に向けた。
━━映っていたのは、自分のいる部屋だった。
押入れの中、畳の模様、天井の木目。
すべてがそのまま映っている。
だが、一つだけ違っていた。
鏡の中の部屋には、誰かが立っていた。
白っぽい服を着た人影。顔は見えない。
頭を少し垂れて、押入れの前にじっと立っている。
Tさんは凍りついた。
懐中電灯を下ろして再び照らし直すと、そこにはもう何も映っていなかった。
怖くなり、鏡をそっと穴から取り出すと、布にくるんで外の物置に出した。
「古い鏡が反射して光ってただけなのかもしれない」と自分に言い聞かせ、その夜は早めに布団に入った。
だが眠りについたのも束の間、夜半に再びあの淡い光が目に入った。
押入れのふすまの隙間から、またうっすらと灯りが漏れている。
恐る恐るふすまを開けると、押入れの奥に、また板の隙間から光がにじんでいた。
覗き込む勇気はなかった。
ただその光の中で、一瞬だけ何かの影が動いたのを見た。
翌朝、Tさんは物置を確認した。
昨夜出したはずの鏡はもうなかった。
代わりに押入れの中の穴の奥に、あの鏡が元通り立てかけられていた。
しかも、鏡面にはうっすらと手の跡が残っている。
その日、Tさんは工房で地元の年配の職人にこの話をした。
職人はしばらく黙ってから、低い声で言った。
「その家な、昔鏡守りって言われる家だったんだ。
死んだ人の魂を鏡に映して鎮める風習があったらしい。
その鏡、動かしちゃいけなかったんだよ」
Tさんは血の気が引いた。
その夜、宿のように別の部屋で寝ようとしたが、ふすまの向こうからはまた淡い光が漏れ、それに混じって、誰かが畳を撫でるような音が聞こえてきたという。
翌朝、Tさんは荷物をまとめ、工房の人に頼んで別の家に移った。
それ以来、あの古民家には誰も住んでいない。
夜になると今も押入れの隙間から、ぼんやり灯りが漏れているのを、近くの人が時々見かけるそうだ。