
専門学校生のKさんが借りたアパートは、築年数の古い平屋だった。
しかし、畳も壁も手入れが行き届いており、日当たりも良かったため、Kさんはすぐに気に入った。
何より家賃が手頃だった。
引越しを終え、新しい生活にも慣れ始めた頃のことだ。
Kさんは夜中に喉の渇きを覚え、目を覚ました。
時計を見ると、午前三時を少し回ったところだった。
静まり返った台所へ向かう。
冷蔵庫から水を取り出し、それを飲むためにシンクの前に立った時、Kさんは違和感を覚えた。
蛇口の真下、シンクの底に一筋の細い茶色い線が伸びている。
水痕だった。
だが、水は完全に止まっていた。
蛇口から水漏れしている様子もない。
Kさんは首を傾げた。
もし水が漏れていれば、もっと広範囲に濡れているはずだ。
これはまるで筆で線を引いたように、細く、茶色がかった線だった。
不思議に思いながらもKさんはティッシュを取り、それを拭き取った。
線は簡単に消えた。
翌朝、Kさんはそのことをすっかり忘れ、学校へ出かけた。
しかし、その日の夜もKさんは午前三時頃に目が覚めた。
不思議なことだった。
普段は目覚ましが鳴るまでぐっすり眠るタイプだ。
再び台所へ行くと前日と同じ場所、蛇口の真下に全く同じ形状の茶色い線が伸びているのを発見した。
拭き取ったはずの水痕がまた現れた。
Kさんの背筋に冷たいものが伝った。
なぜ水が完全に止まっているこの場所から、誰も使わないはずの午前三時に、この線が現れるのか。
次の夜、Kさんはわざと午前二時半にスマホのアラームをセットし、台所の扉を開けたまま寝たふりをして待った。
午前二時半、スマホのアラームが鳴ったので止め、Kさんがシンクのほうを見ると、もう線は伸び始めていた。
それは一滴の水が垂れて線になるというよりも、シンクの排水口の穴から、何かが這い出てきて、静かに線を描いているかのような動きに見えた。
恐怖を感じたKさんは、翌日から台所を使うことを極力避けた。
食事は買って来たもので済ませ、洗い物は風呂場で行うようになった。
だが、この水痕はKさんが避ければ避けるほど、図々しくなっていくようだった。
その夜、午前三時の水痕はシンクの底だけでなく、ついにシンクの縁まで這い上がってきた。
茶色い線は、まるで細い指先がシンクの外側へ出ようとよじ登っているかのように、僅かにうねりながら動いている。
Kさんは台所の入り口から、その光景をただ見つめていた。
水痕はシンクの縁に達すると、そこで動きを止めた。
そして部屋の中へ向かって極めてゆっくりと、その方向を変えようとしているように見えた。
Kさんはそこで限界を感じた。
これはただのシミではない。
それは排水口という穴の向こう側から、自分の生活圏へ侵入しようとしている、何かの意志を持ったもののように感じられた。
Kさんはその日、友人に連絡を入れアパートから逃げ出した。
鍵はかけたが、もうその部屋に戻るつもりはなかった。
翌日、Kさんは大家に連絡を取り、新しいアパートが見つかるまで実家に帰らせてもらうと伝えた。
そして古いアパートの部屋には、最後に確認した時よりも、さらに長く、シンクの縁から床へ向かって伸び始めた水痕が残されていたという。