この話は郊外の小さな大学にある、怪談研究サークルの部員たちが実際に足を運んで確かめた噂の話。
Rさんたちが向かったのは、町外れに残された旧総合病院の跡地だった。
夏の終わりの湿気の多い夜。
虫の声だけが無音の中に散っていくような、ひっそりした空気が漂っていた。
病院そのものは老朽化が進み、窓ガラスは落ち、鉄骨が露出している。
その裏手に、地面に半ば埋まるようにして巨大な金属タンクが置かれていた。
かつて病院で使われていた貯水槽らしい。
ネットの古い噂では、
「タンクの中に人の顔みたいな泡が浮く」
「溜まり水の底で、何かが動いている」
そんな意見が散発的に残っていた。
Rさんを含めた大学生の四人は、懐中電灯を照らしながらタンクへ近づいた。
周囲は誰もいないはずなのに、雑草の揺れる音が妙に遠く感じた。
タンクの蓋は錆びついていたが、二人掛かりで押し上げると、内部から生ぬるく腐敗した臭気がふわりと立ち上った。
ひっそりと静まり返ったその水面には、いくつもの丸い泡がゆっくりと浮かんでいた。
人の顔に見えなくもない、そんな輪郭。
Rさんいわく、泡の中心だけ妙に凹んでいて、そこだけ目のように見えたらしい。
泡がひとつ、またひとつゆっくり弾けた。
そのたびに、水の下から白く細い何かが伸び上がった。
腕のように見えたが形は一定ではなく、水に溶けるように揺れていた。
部員の一人がRさんの肩を引こうとしたが、Rさん自身は目を離せず、気づけばタンクの縁に身を乗り出していた。
水面から上がってくるそれらは、骨のようでも布のようでも、肉片のようでもあり、姿を定めないまま水面を探るように動いていた。
泡がまた弾けた。
その瞬間、最も大きな泡が破れ、水の奥底からいくつもの白い影がこちらを向いた。
目ではなく、輪郭だけがこちらを見ているようだったと、Rさんは言っていた。
次の瞬間、Rさんの重心が前に傾いた。
誰かに押されたのではなく、タンクの中から引かれたような感覚だったと。
水面が近づき、一瞬、黒と白の混ざった手のようなものが自分の胸あたりを掴んだのが見えたと言う。
ドボンという音と同時に、Rさんの体が水に沈んだ。
生温い水が服に染み込み、耳元で何かが揺れるような気配があった。
上から仲間たちの手が伸び、必死にRさんを引き上げた。
タンクの縁に戻ったとき、Rさんの服の胸元には、白く濁った指の跡がいくつもついていた。
どれもところどころ黒ずみ、形が完全には保たれていなかった。
仲間たちは慌ててRさんを引きずるようにその場を離れた。
背後のタンクは、風もないのに水面だけがかすかに揺れていた。
Rさんはその後熱を出したが、数日で元に戻った。
ただ、服についた白く黒ずんだ跡だけは、洗っても落ちなかったらしい。
今でもRさんは言う。
あの時見上げてきた形のない目の感触が、水の中でずっと視界の端に揺れていたように感じた、と。
そして、あのタンクだけはどんな噂よりも実在感があった、と。
病院跡は今も立ち入り禁止のまま、あのタンクもそのまま残されているらしい。