
北アルプスの支尾根にある古い避難小屋で起きた、Fさんたちの体験談。
季節は晩秋。
空気が冷え込み、日暮れがいつもより早く山を覆う頃のこと。
Fさんたちは大学時代から続く登山仲間で、社会人になってからも定期的に山へ入る関係。
この日はFさん、Tさん、Sさんの三名で軽い縦走を楽しむ予定だったが、午後の早い時間から霧が濃くなり、稜線の風も急に強まり、計画を変更して近くの避難小屋で一夜を過ごす判断に至った。
十七時を少し回った頃。
太陽が山の端に隠れ、周囲は薄い青灰色の暗さに満ち始めていた。
そこでようやく避難小屋が見えてきた。
それは木材で組まれた一階建ての小屋で、外壁は古びた灰色に変色し、風雨に削られた溝が縦横に走っている。
屋根は傾き、窓は必要最低限の大きさしかなく、外の景色を拒むかのように小さかった。
周囲にほかの登山者の姿はなく、風が木々を揺らす音だけが森に漂っていた。
中へ足を踏み入れると、古い木の匂いが鼻へ押し寄せ、床板がぎしりと沈む。
壁には以前の利用者が残した落書きや注意書きが掠れたまま残り、天井の梁には黒ずんだ影が細く伸びていた。
三人はランタンを灯し、持参した食料で軽い夕食を済ませ、雑談を交えながら時間を過ごした。
外は完全に闇へ沈み、森の底のような静けさが小屋の周囲を包む。
十九時を少し過ぎた頃。
Tさんがふいにランタンから離れた暗がりをじっと見つめ、声を潜めた。
「壁…何かいる」
冗談に聞こえる軽さが一切なく、視線は一点から動かない。
FさんとSさんもそちらへ目を向けた。
壁の上で白くて細長い何かが、ゆらりと形を変えながら動いていた。
それは生き物の形を保とうとするような、しかしどこにも当てはまらない輪郭で、細い本体から腕のような突起が何十本も広がり、蜘蛛に似た動きで壁を這い上がっていく。
突起の一本一本が木の表面を撫でるように曲がり、滑るようにして天井へ近づいていく。
「人の手が付いてる…」
Sさんが震える声を漏らした瞬間、そいつは天井いっぱいに広がり、輪郭がぐにゃりと変形した。
白いそれは面積を増し、そこに無数の顔のような模様が浮かび始めた。
笑う表情、泣いているように見える表情、怒りの形にゆがんだ表情。
どれも輪郭が曖昧で、木の節から滲み出るように形を作り、ゆらゆらと揺れ続ける。
Fさんが恐怖を抑えようとしてランタンを少し近づけた。
その瞬間、模様の中心でひとつだけ本物の目がゆっくりと開いた。
黒く濁りながらも、確かな焦点を持つ目。
光を反射し、ぎょろりと三人へ向けられた。
三人とも息が止まり、ランタンの炎が揺れる音まで聞こえるような無音の中で、その目だけがじわりと動き続ける。
ランタンが消えかけて暗くなったほんの一瞬、天井の影は跡形もなく消えていた。
ランタンの光が照らす天井には何もいない。
すべて霧のように消え去っていた。
静まり返った小屋には、三人の荒い呼吸だけが残る。
恐怖を振り払うため外へ出て周囲を確認したが、闇の中で風が木々を揺らすだけで、人の気配はまったく感じられない。
小屋に戻ると、天井の板にだけ不自然な跡が残っていた。
小さな手形がいくつも重なり、木目に沿うように広がっている。
どれも古びているように見えるのに、ついさっき浮かび上がったような鮮明さを持つ手形。
夜明けの光で見上げても、その跡はそのまま残っていた。
三人は言葉を交わさず山を下りたが、のちに集まったとき、ひとつだけ共通した感覚を語っている。
消えた瞬間、背後で何かがすっと動いた気配があったと。
その気配の正体は今も分からないままなんだそうだ。