じいちゃんがまだ中学生だった頃、夏休みの夕方に体験した出来事。
じいちゃんの家の周りは田んぼと山に囲まれた土地で、学校からの帰り道はいつも山の斜面を通る細い舗装路だった。
夏の夕方は、山の陰が早く落ちて涼しくなるが、そのぶん道は薄暗く、蝉の声が遠くに残るだけで、ひっそりとした空気が広がっていた。
その日、じいちゃんは自転車で軽くペダルを踏みながら山を下っていた。
少し風が出て、木の葉が揺れる音がどこか遠ざかっていく。
家まではあと少し──そんなことを考えていたときだった。
前方にトボトボ歩く男の後ろ姿が見えた。
距離はまだ少しあったが、中学生のじいちゃんの目にはその背中が妙に沈んで見えた。
腰が落ち、肩が重たそうで、足取りはゆっくりなのに、どこか急ぎ足に見えるような不思議な歩き方だった。
じいちゃんはスピードを落とし、男の横を静かに通り抜けるつもりで近づいていった。
けれどあと十数メートルほどの距離になった瞬間──
男の首だけがぐるりとこちらへ向いた。
体は前を向いたまま歩き続けている。
だが、首だけが完全にじいちゃんの方を向いていた。
顔は夕方の薄暗さでよく見えない。
ただ目の位置と思しき影だけが、じいちゃんを見ているように見えた。
じいちゃんは反射的にブレーキを握りしめ、自転車ごとピタリと止まった。
男、その不自然な姿勢のまま歩き続けている。
足音も衣擦れの音もない。
ただ道に落ちた影だけが、ゆらゆらと揺れながら前へ進んでいく。
そして男が道の端に近づくと──
ふっと藪の中に溶けるように消えた。
草が揺れる音などはなかった。
そこには最初から誰もいなかったかのように、静けさだけが残った。
じいちゃんはしばらく動けなかったという。
手は汗でじっとり濡れ、自転車のハンドルがやけに冷たく感じた。
「追ってこられたらどうしよう」
その考えが頭をよぎった瞬間、体が勝手に動き出した。
ペダルを踏む足は震えていたが、必死でスピードを上げて山道を駆け下りた。
背後から何かが追ってきている気がして、何度も振り返りたくなったがそれだけはしなかった。
村の家々が見えてきたところで、ようやく息を吐き、脚の震えが少し落ち着いた。
家に着いたとき、じいちゃんは全身汗まみれで、母親(じいちゃんの)に驚かれたという。
あの男が何だったのか、首だけが動いていた理由もじいちゃんには分からないままだという。