じいちゃんが子どもの頃の話。
家の裏手にある古井戸のまわりだけ、なぜか風が通らないような、むわっとした空気が溜まっていたらしい。
家族はその井戸のことをあまり話したがらなかったが、理由までは教えてくれなかったという。
ある晩、じいちゃん(当時はまだ小学生)が縁側で遊んでいると、外はもう真っ暗なのに井戸の方から「ぽちゃん…」と水が落ちるような音がした。
虫でも落ちたんだろうか?
小さく響いたその水音がどうにも気になったじいちゃんは、懐中電灯を片手に裏へ回った。
井戸の上には古い木の蓋が掛けられているはずなのだが、その日は半分だけずれていた。
閉め忘れたんだろうか?
じいちゃんは好奇心が勝ってしまい、蓋のすき間から井戸をのぞきこんだ。
水面は黒くて深い。
懐中電灯を照らしても何も見えないはずなのに、底のほうで白いものがゆらゆら漂っていた。
じいちゃんは最初、布切れか何かがかな?と思ったらしい。
けれどそれをずっと見ていると、白いものの輪郭がはっきりした。
それまるで「顔」だった。
目と口の位置が何となくわかる。
顔の発光だけが水底でゆらゆらと揺れていたという。
じいちゃんは息を吞んだまま動けなくなった。
するとその顔みたいなものがスッ…と水の中を浮上するように動いてきた。
じいちゃんは、はっきり見てしまった。
白い顔が、笑っていた。
目がある場所が、細く曲がっていた。
口の穴みたいな部分がにやっと横に伸びて広がった。
その顔が水の下からじいちゃんに向かってくる。
その動きが生き物のように滑らかで、じいちゃんは悲鳴を上げ、懐中電灯を落としてそのまま家まで全力で走って逃げた。
家に飛び込んで泣き叫んだじいちゃんの声を聞いて、じいちゃんの両親が何事だと駆け寄ってきた。
今の出来事を話すと、親父さんが慌てて外へ出ていく。
じいちゃんは怖かったが一緒に井戸まで向かった。
親父さんは灯りを井戸に向け中を確認したが、井戸の中は何一ついなかった。
じいちゃんは大人になってからも、あの夜の井戸には生き物じゃない「何か」がいた、とずっと言っていたという。
そしてその古井戸、今でもじいちゃんの実家の裏にある。
夜になると、ときどき「ぽちゃん…」という水音だけが無音の中に落ちるんだとか。