ばあちゃんがまだ二十代の頃の話。
当時の村は今よりもっと家も人も少なくて、夕方になると畑一帯がひっそりとしていた。
ばあちゃんは毎日のように、家の裏の畑で芋や野菜の世話をしていたらしい。
その日も空が少しずつ群青色に沈み始めるころ、畑仕事を切り上げて帰ろうとしていた。
土の匂いが残る道を歩いていると、向こうの畦道あたりに、人影がひとつ立っているのが見えた。
ぼんやりとした夕闇の中でも、その影は妙にはっきりしていたという。
最初は近所のおっちゃんかと思った。
農作業服を着ているような形で、背丈も人と変わらない。
でも何かが変だった。
ばあちゃんは少し目を凝らした。
腕がおかしい。
体の横にあるはずの腕は影の中でほとんど動かず、だらんとぶら下がっている。
だけどその肩の少し上から、もう一本別の腕みたいなものが生えていて、その三本目の腕だけがゆっくり、ゆっくりとばあちゃんに向かって手招きをしていた。
夕方の薄暗さの中で、その腕だけは奇妙に白っぽく浮かんで見えたらしい。
ばあちゃんは足を止め、胸の奥がざわっとした。
昔から近所では「畑に立つひとだまし」って呼ばれるものがいて、夕暮れ時に呼ばれて近づくと帰り道のはずの畦道が見えなくなり、気づけば畑の真ん中をぐるぐる歩かされる、そんな話が伝わっていたという。
ばあちゃんは、それが本当にあるとは思っていなかった。
ただの昔話だと。
けれど目の前で手招きしているそれは、人とはどう見ても違っていた。
無音の中に土の匂いだけが漂っている。
影は離れた場所に立っているはずなのに、手招きの動きだけが奇妙にはっきり見える。
しかも、その腕は体につながっている感じがなくて、浮いているように見えた。
ばあちゃんは一歩でも動いたら呼ばれる気がして、すぐに視線を外した。
畑の方を見ないように、ゆっくりと顔を下げる。
その瞬間、風も吹いていないのに草の葉がざわ…と揺れた気がした。
ばあちゃんは怖くなり目をそっと戻した。
さっきまでいた影はいなかった。
畦道は夕闇に沈み、遠くの山の輪郭だけがぼんやり浮かんでいる。
さっきの三本目の腕も跡形もない。
ただ誰もいない畑の真ん中に、まっすぐ伸びる黒い影が一本だけ落ちていた。
ばあちゃんは、そこからまっすぐ家へ逃げ帰った。
振り返る勇気はなかったらしい。
家に着いてからも、後ろからゆっくり手招きされるような気配が背中にまとわりついて、しばらく眠れなかったという。
その後、同じ畑の帰り道で妙な影を見た人は何人もいたが、共通していたのは、「あれは、夕暮れの畑にしか現れない」ということだけだった。
呼ばれて近づくと帰れなくなる━━そのひとだましの正体は、今でも誰にもわからないままだという。