
じいちゃんがまだ十歳にも満たない頃。
村のあたり一面は麦畑だらけだったらしい。
麦の穂が風に揺れると、金色の波がざわざわと続いて、どこまでも広がる景色は子どもには楽園みたいだったという。
その麦山のふもとは、昼でもひっそりとした空気が漂っていて、大人たちが雑談する声だけがかすかに響いていた。
じいちゃんはそんな中、麦畑の中に入って走り回るのが好きだった。
背丈より少し高い麦が壁みたいになって、冒険してる気分になるからだ。
その日も麦の間をくぐるようにして遊んでいた。
足元の土は柔らかく、踏むたびにじわりと沈む。
自分の動きで麦が左右にゆらっと揺れて、向こうの景色が断片的に見え隠れしていた。
ふとその揺れの向こうに何かの影が見えた。
鹿みたいに細長い体。けど角はなく毛並みは犬に近い。
四つ足で低く構えて動き回っているのが分かった。
「変わった犬だな」
最初はそんな程度に思ったという。
しかし違和感に気づいた。
その犬のようなものは、どういうわけかまったく麦を揺らさない。
四つ足で動いているのに、麦の穂は一つも倒れていない。
風も吹いていないのに、そこだけ静止画のように動きがない。
「おかしい」と思った瞬間、その生き物の顔が見えた。
犬ではなかった。
顔の正面に目がなく、真横についていた。
魚の横顔みたいに、平たい顔の側面にぽつんと黒い目。
その横目が麦の隙間からじいちゃんをまっすぐ見ていた。
その目は瞬きせず、濁りもなくただじいちゃんの動きだけを追い続けていた。
獣は麦の中をすいすいと滑るように移動している。
草一本揺れず、足音もない。
なのに動きは確かに速い。
じいちゃんが動くのを止めると獣も止まる。
じいちゃんが走ると獣も同じ速度でぴたりとついてくる。
怖くなったじいちゃんはそのまま麦畑から飛び出し、近くにいた大人たちのところへ全力で走った。
息を切らしながら
「へ、変な犬が…横に目があった…ずっと付いてきた…」
と言うと、
大人の一人が、鍬を担いだまま面倒くさそうに、
「あぁ、横目の獣か」
と当たり前のように言った。
じいちゃんはその反応にさらに混乱した。
知らないのは自分だけだったのかと。
大人たちは、麦山には昔から横目の獣が出ると話していたらしい。
姿は犬にも鹿にも見えるけど、麦を倒さずに動くから本物の獣じゃないと分かる。
そして横向きの目で見られると、しばらく後ろからついてくる━━そんな言い伝えがあったという。
大人によると、追ってくるのは子どもだけで、麦畑から出れば絶対に外までは来ないとのこと。
だから脅すような雰囲気もなく、ただ「気をつけろよ」と軽く言われただけだった。
じいちゃんはその日以来、麦畑に入る事は無くなったという。
横目の獣は麦山のどこかを今でも歩いているのだと、じいちゃんはよく言っていた。