怖い話と怪談の処

ブログ名の最後の文字は(ところ)と読みます。怖い話や不思議な話が大好きな方、是非ご堪能下さい。記事への★ありがとうございます。

紫色の布が掛けられた鏡

たまたま入院中に知り合った、Fさんという人から聞いた話。

 

Fさんがその旅館で働き始めたのは、まだ二十代の頃だった。

宿場町の外れにある古い旅館で、木造三階建て。

廊下は歩くたびにみしりと鳴り、夜になるとどこからともなく水の滴る音が聞こえるような、そんな場所だった。

 

三階の一番奥にある「さくらの間」は、昔から何かあると噂されていた。

理由は誰も知らない。

ただ、そこに置かれた大きな姿見──その鏡に、いつも紫色の布が掛けられていることだけは、誰もが知っていた。

「何があっても、夜中に布を剥いではいけないよ」

女将がそう言ったときの表情は冗談ではなかった。

目の奥に長年の恐怖が沈んでいるようだった。

 

Fさんは最初こそ気にしなかったが、毎日その部屋を掃除するうちにどうしても気になってしまった。

布の下にある鏡はどんなものなのか。

なぜ夜中だけは見てはいけないのか。

 

そして──その夜が来た。

 

深夜二時。

旅館は静まり返り廊下の電灯は落とされ、外からは風の音だけが聞こえていた。

Fさんはまるで何かに誘われるように「さくらの間」へ向かった。

襖を開けると部屋は月明かりだけが差し込み、薄青い影が畳に落ちていた。

鏡はいつものように紫の布をかぶっている。

だが、その布がわずかに揺れているように見えた。

風なんて入っていないのになんだろう?

Fさんはそっと布の端をつまみ、ゆっくりと持ち上げた。

布の向こうに現れた鏡は思ったよりも古びていた。

縁は黒ずみ、鏡面はどこか曇っている。

だが、映っているのは確かにこの部屋──のはずだった。

 

部屋の隅に誰かが座っている。

え?と思い周りを見渡しても誰もいない。

見間違いだと思ったのだが、瞬きをしてもそれは消えない。

顔のない真っ黒な影のような男。

輪郭だけが人間で、中身は闇そのもののようだった。

 

Fさんは声も出せずに固まっていると、影はゆっくりと立ち上がり、こちらへ向きを変えた。

いや、違う。

鏡の中の男は鏡の内側から、表面を叩いたのだ。

トン、トン。

その音は鏡越しとは思えないほど生々しかった。

そして掠れた声が響いた。

『カワッテクレ』

その瞬間、鏡の中のFさんの顔がじわじわと黒く染まり始めた。

目の穴が広がり、口が裂け、あの影と同じ顔のない男になっていく。

Fさんは悲鳴を上げ布を鏡に投げかけ、鏡の中の影は見えなくなった。

 

だが、それで終わりではなかった。

 

翌日からFさんは鏡を見るのが怖くなった。

洗面所でも窓ガラスでも、スマホの黒い画面でも。

ほんの一瞬だけ、自分の顔があの男の顔に見えるのだ。

黒く穴のように空いた顔。

こちらを見ているのか見ていないのか分からない。

 

Fさんは旅館を辞めた。

だが、辞めたあとも鏡を見るたびに影は現れる。

 

ある日、Fさんは気づいた。

影の顔が少しずつ自分の顔に近づいていることに。

その内鏡の中から出てきてしまうんじゃないだろうか。

Fさんはそう言って談話室から去っていった。