都内にある、築三十年ほどの雑居ビルでの話である。
そのビルの三階には小さなデザイン事務所が入っており、そこで働くAさんはその日、深夜まで一人で残業をしていた。
午前二時を回った頃。ふと、誰もいないはずの廊下から音が聞こえてきた。
コツ、コツ、コツ。
硬い靴音が階段を上がってくる。
このビルは夜間、一階のオートロックが閉まるため、外部の人間は入れないはずだ。
音は三階のフロアで止まった。
Aさんは手を止め、入り口のドアをじっと見つめた。
しかしノックの音もしなければ、ドアが開く気配もない。
(気のせいか…)
そう思い、再びパソコンに向かおうとした瞬間。
――コツ。
今度はすぐ背後で音がした。
振り返るとそこには女が立っていた。
古い紺色のスーツを着て、首を不自然に横に傾けている。
女はAさんと目が合うと、表情一つ変えずに口を開いた。
「ここは、上りですか。下りですか」
Aさんは声が出なかった。ここは三階の事務所の行き止まりの壁際である。
階段などどこにもない。
女はもう一度、今度は耳元で囁いた。
「ここは、上りですか。下りですか」
Aさんは震える指先で窓の外を指さす。
そこには夜の街が広がっているだけだ。
女はAさんが指さした方向をじっと見つめると
「ああ、あっちですね」
と言って窓に向かって歩き出した。
そしてそのまま、壁を通り抜けるようにして闇の中に消えていった。