ある田舎の町で、商いをしているTさんから聞いた話。
Tさんが仕事が終わったあと、いつも通っている古い銭湯に寄った時のこと。
その日はひどく冷え込む夜で、湯船にはたっぷりと熱い湯が張られていた。
先客はまばら。Tさんは体を洗い、大きな湯船の隅に肩まで浸かった。
心地よい銭湯ならではの音と、天井から時折落ちてくる水滴の音が響く。
しばらくしてTさんは違和感を覚えた。
誰かが自分のすぐ隣に座った気配がしたのだ。
目を開けると、いつの間にか一人の男が隣にいた。
すぐ隣なのに、何故か湯気で顔がぼんやりとしている。
その男は微動だにせず、じっとお湯の底を見つめているようだった。
Tさんが少し窮屈に感じ、場所を移動しようとしたその時、男が抑揚のない掠れた声で呟いた。
「…数えてください」
Tさんは耳を疑った。
「え?」と聞き返したが男は同じトーンで繰り返す。
「…百まで。出られないんです。数えてもらわないと」
Tさんは気味が悪くなりながらも、早くこの場を離れたい一心で、心の中で数を数え始めた。
一、二、三…。
十を数えたあたりでTさんは異変に気づいた。
男の輪郭が、お湯に浸かっている部分から、じわじわと「滲み出している」ことに。
まるで水面に落とした墨汁のように、男の影が黒く、濃く、お湯の中に広がっていく。
恐怖で心臓が跳ね上がった。
しかし、Tさんの意識はまるで見えない糸で縛られたかのように、数字に集中させられていた。
頭の中で数字が勝手に進んでいく。
五十、五十一…。
男の姿はしだいに希薄になり、代わりにお湯はどろりとした闇のような色に染まっていく。
周りの客は誰もこちらを見ていない。
八十、八十一…。
男の存在感はもう、陽炎のようにゆらゆらと揺れる影でしかなかった。
それでも、その影の奥にある「何か」が、じっとTさんを捉えて離さない。
逃げようとしてもお湯が重く体にまとわりつき、指一本動かせなかった。
九十八、九十九…。
「百」
頭の中で最後の数字が響いた瞬間、目の前の影が吸い込まれるように消えた。
お湯の中に完全に溶け込み、何もなくなった。
次の瞬間、Tさんは激しく息をつきながら湯船から這い出した。
お湯は透明で、先ほどまでの黒い汚れなどどこにもなかった。
Tさんは急いで服を着て、逃げるように番台の前を通り過ぎようとした。
すると番台のおじいさんが、帳面に目を落としたままボソリと言った。
「…ご苦労さん」