この話はネタ記事ですので、今までの怖い話とは経路が違います。
変なネタでもいい!という方のみどうぞ。

世の中には、知らなくてもいいことがたくさんある。だが、私は知ってしまった。
先日、私は山深い渓谷沿いにある、一軒の宿を訪ねた。「秘湯」という言葉に弱い私は、期待に胸を膨らませてカメラ片手に突撃したのだ。
その宿の自慢は、川のせせらぎを間近に感じる露天風呂。日中の取材を終え、私は夜の静寂の中でその湯に浸かることにした。
「…最高だ」
深夜、他に客はいない。あるのはゴーゴーと鳴り響く川の音と、立ち込める真っ白な湯気だけだ。
だが、しばらく湯に浸かっていると、妙なことに気づいた。目の前の岩組みの向こう側から、「チャプン…」と、明らかに川の音とは違う、誰かがお湯をかき回すような音が聞こえたのだ。
(誰か他にも入っているのか?)
私は目を凝らした。昼間のロケハンでは岩の向こうはすぐ崖で、風呂なんてなかったはずだ。
しかし、立ち上る湯気の向こう側、暗闇の中に、もう一つ別の「岩風呂」がうっすらと見えたのだ。
それは私が今入っている風呂よりも一段低く、さらに川の近くにせり出しているように見えた。
しかも、そこからは豊かな湯気が上がり、穏やかな水音が聞こえてくる。
「おかしいな、あんなのあったっけ…」
私は不思議に思い、その「向こう側の風呂」へ行こうと腰を上げた。岩を一つ越えればすぐに向こう側へ行ける。だが、その瞬間だ。
…ピタッ。
水音が止まった。それと同時に今まで温かかった周囲の空気が、氷のように冷たく変わった気がした。
私はその場から動けなくなった。なぜか一歩でも岩を越えてしまったら、二度とこちら側には戻れない――そんな本能的な恐怖が背筋を駆け抜けたのだ。
結局、湯船から飛び出し、逃げるように部屋へ戻った。
翌朝。チェックアウトの際、フロントの主人にさりげなく尋ねてみた。
「あの、露天風呂のさらに川沿いにある、もう一つの岩風呂なんですけど…」
主人は私の顔をじっと見た。その目は全く笑っていない。
「…お客さん、あそこが見えたんですか」
主人は声を低くしてこう続けた。
「あそこは数十年前、土砂崩れで埋まってしまったんですよ。今はもう基礎すら残っていません」
私は絶句した。じゃあ私が見たあの湯気は?あの誰かがお湯をかき回すような音は、一体何だったのか。
「あそこに入ろうとして、そのまま川に落ちて戻ってこなかった人もいたもんでね。今は立ち入り禁止にしてるんですよ」
私はそれ以上何も聞けなかった。もし昨夜、あの岩を越えていたら、今頃私はカメラを抱えたまま、冷たい川底で「秘湯」を楽しんでいたのかもしれない。
私は早々に宿を後にし、帰りの車中で何度も自分の肩を払った。温泉は体だけでなく「何か」も引き寄せてしまう場所なのだと、痛感した次第だ。
皆さんも夜の露天風呂で「知らない湯船」を見つけても、決して近づかないでほしい。その湯船の温度はきっと…。