私が今回話を聞いた大学生のTさんは、今でも自分の免許証を肌身離さず持っているという。
「自分の名前を忘れてしまいそうで怖い」
震える声でそう語る彼が、半年前の夜、山間部の無人駅で何を見たのか。
掲示板に貼られた、ある「忘れ物」の告知。
そこに自分の名前を見つけた瞬間から、彼の世界は変質してしまった。
「街灯もまばらで、虫の声さえ聞こえない。
ただ、遠くで踏切の警報機が鳴り続けているような、奇妙なしんとした、それでいて嫌な予感のする静けさでした」
スマホの充電も切れかかり、手持ち無沙汰になったTさんは、ホームの隅にある古い木製の掲示板を眺めることにした。
そこには色褪せた路線の案内図や、地域のイベント告知などが無造作に貼られていた。
その中央に、一枚だけ真っ白で新しい貼り紙があった。
『お忘れ物のお知らせ』
手書きの文字だが、驚くほど整っており、どこか無機質な印象を与える書体だった。
Tさんは何気なくその内容を目で追った。
『〇月〇日、2番ホームにて「命」のお忘れ物がありました。
お心当たりのある方は、後ろを振り向いてください』
「最初は質の悪いいたずらだと思ったんです。
でもその貼り紙の一番下を見た瞬間、全身の毛穴が逆立つような感覚に襲われました」
そこには備考欄のような小さな枠があり、はっきりとした太い文字でこう記されていた。
『遺失主:〇〇〇〇(Tさんのフルネーム)』
Tさんは自分の目を疑った。
なぜ見知らぬ無人駅の掲示板に、自分の名前が書かれているのか。
今日、自分はまだ「生きて」ここに立っているはずだ。
その時だった。
カツン…。
カツン…。
背後のコンクリートから、乾いた足音が聞こえてきた。
無人駅のはずだ。
始発まであと3時間はあり、周囲に民家もない。
足音はゆっくりと、だが確実にTさんの背中を目指して近づいてくる。
「振り向いちゃいけない。そう本能が叫んでいるのに、首が勝手に動いてしまったんです」
Tさんが恐る恐る肩越しに振り返ると、そこには紺色の古い鉄道員のような制服を着た「何か」が立っていた。
帽子を深く被り、顔の部分は影になっていて見えない。
その男は手に古びた白い布を携えていた。
「…お忘れですよ」
男の声は、まるで古い蓄音機から流れるノイズのように掠れていた。
男が差し出した白い布が、ゆっくりと解かれる。
その中に入っていたのは、Tさんが今、確かに自分の胸の中に感じているはずの「拍動」…そのものだった。
ドクン、ドクンと、布の中で生々しく震える「何か」。
Tさんは叫び声を上げようとしたが、声が出ない。
気づけば掲示板の貼り紙の内容が書き換わっていた。
『受取確認:完了。
代償として「名前」をいただきます』
男の手がTさんの顔に向かって伸びてくる。
その指先には節がなく、まるで白いチョークのように乾燥していた。
Tさんはなりふり構わず線路に飛び降り、真っ暗なトンネルの方へ向かって夢中で走った。
「気づいたら数キロ先の国道沿いで、警察官に保護されていました。
幸い怪我はありませんでしたが、警察官に名前を聞かれた時、どうしても自分の名前が思い出せなかったんです」
Tさんは今でも自分の免許証や保険証を見て、自分の名前を確認しないと不安で堪らなくなるという。
それどころか時折、背後から「カツン」という足音と共に、「…お忘れですよ」という囁きが聞こえてくる。
無人駅の掲示板。
もしそこに覚えのない忘れ物の告知があったとしても、決して自分と結びつけて考えてはいけない。
あなたが「自分は自分である」と確信しているその根拠さえも、あの掲示板の主に「返却」しなければならなくなるのだから。