出張族にとって、ビジネスホテルは単なる「寝床」に過ぎない。
だが、今回お話を伺ったRさんは、あの日以来、二度と地方の古いホテルには泊まれなくなったという。
「あの音を聞くだけで、背筋が凍りつくんです」
彼女が今でも怯えているのは、深夜の静寂を切り裂いた内線電話のベル。
そして、チェックアウトの瞬間に突きつけられた、この世のものとは思えない「ある証拠」だった。
事の起こりは3ヶ月前。
Rさんが到着したのは、深夜23時を過ぎた頃。
建物の外壁は薄汚れ、エレベーターが昇るたびに「ギィ…」と、何かが軋むような重苦しい音が響く。
部屋に入るとカビ臭い空気と、妙に低い天井が彼女を迎え入れた。
疲れ果てていたRさんはすぐにシャワーを浴び、枕元の明かりだけを残して眠りについたという。
異変が起きたのは、深夜2時を回った頃だった。
「ジリリリリ…ッ!」
静まり返った室内で、突如として内線電話が鳴り響いた。
昭和を彷彿とさせる、やけに甲高いベルの音。
(…フロントかな?)
寝ぼけ眼で受話器を手に取ったRさんだったが、耳に飛び込んできたのは予想だにしない「声」だった。
「…ねえ、明日の予約、1名追加ですね?」
それはフロントスタッフの事務的な声ではない。
幼い、しかしどこか無機質な、子供のような声だったという。
Rさんは混乱しながらも
「いいえ、間違いじゃないですか。私は一人で泊まっています」
と答えた。
すると受話器の向こうで「クスクス…」という、小さな笑い声が聞こえた。
「…もう決まってるんだよ。だって入りたがってるもん。
あなたの後ろにいる子が」
その瞬間、部屋の空気が一気に凍りついた。
Rさんは恐怖のあまり、何も言わずに受話器を叩きつけるようにして切った。
もちろん、背後を振り返る勇気などあるはずがない。
彼女は震えながら毛布を頭から被り、朝日が昇るのをじっと待ち続けた。
翌朝、一睡もできないままチェックアウトの時間を迎えた。
ロビーに降りると昨夜の電話が嘘のように、明るい日差しが差し込んでいる。
「昨夜、変な内線電話があったんですけど…」
フロントの年配の男性にそう告げようとしたが、忙しそうに作業をする彼を見て、Rさんは言葉を飲み込んだ。
(寝ぼけて夢でも見ていたのかもしれない)
そう自分に言い聞かせ、鍵を返そうとしたその時だ。
カウンターに置かれた「宿泊客の記帳台」が目に入った。
そこには、昨夜自分が書いたはずの署名がある。
だが、その自分の名前のすぐ隣。
空白のはずの欄にそれはあった。
「…泥の手形?」
そこには大人の半分ほどしかない、小さな、そして生々しい「泥の手形」がくっきりと押し付けられていたのだ。
まるで子供が自分の存在を証明するかのように。
さらにその泥はまだ湿っており、微かに「土の匂い」さえ漂っていたという。
Rさんは絶句した。
その手形の横には震えるような稚拙な文字で、ただ一言こう記されていた。
『予約済み』
「それを見た瞬間、昨夜の電話の声が脳内にフラッシュバックしました。
1名追加…。
あの子は私の連れとして、もう『予約』されてしまったんだって」
Rさんは逃げるようにホテルを飛び出し、そのまま駅へと向かった。
だが、本当の恐怖はその後だった。
帰宅途中の電車の窓ガラス。
ふと視線を落とすと、自分の肩のあたりにあの時と同じ「小さな泥の手形」が一つ、べったりと付いていたのだという。
彼女はその後、知人の紹介で有名な神社へ行き、お祓いを受けた。
それ以来、泥の手形を見ることはなくなったが、今でもホテルの内線電話のベルを聞くと、あの無機質な子供の声が耳の奥で蘇るという。
「…ねえ、明日の予約、1名追加ですね?」
もし、あなたが一人で泊まっているはずのホテルの部屋で、覚えのない予約を確認されたら…。
決して、その「追加」を認めてはいけない。
その子は今もあなたのすぐ後ろで、自分が入り込むための「隙間」を探しているのかもしれないのだから。