今回お話を伺ったのは、都内のIT企業に勤めるSさん(30代男性)だ。
彼はあの日以来、どれだけ急いでいても、エレベーターの「閉」ボタンを連打することだけは絶対にしないという。
「急いでいたから、なんて言い訳にもなりませんよね」
そう力なく笑うSさんが体験したのは、物理的な法則を無視した、あまりにも静かで不気味な「異空間」への迷い込みだった。
事の起こりは昨年の秋。
残業を終えたSさんが、深夜22時過ぎに会社の入る雑居ビルのエレベーターに乗り込んだ時のことだ。
そのビルは築40年近い古びた建物で、夜になると独特の重苦しい空気が漂う。
Sさんが1階のボタンを押すと、なぜか誰もいないのに「閉」のボタンがチカチカと不規則に点滅し始めた。
最初は接触不良かと思ったそうだ。
だが、一向に閉まらない扉に苛立ちを感じたSさんは、反射的に「閉」ボタンを強く3回、叩きつけるように連打した。
その瞬間、エレベーターの挙動がおかしくなった。
通常なら滑らかに降下するはずの箱が、まるで厚い泥の中を突き進むような、重苦しい振動と共に動き出したのだ。
そして、表示パネルに見たこともない数字が浮かび上がる。
「1.5」
ガクン、と大きな衝撃と共に扉が開いた。
そこは、オフィスビルの内装とは似ても似つかない場所だった。
コンクリートの壁はなく、目の前に広がっていたのは黒光りする太い梁(はり)と、ひんやりとした土壁。
どう見ても「古い蔵」の内部にしか見えない空間だ。
スマホの明かりを向けると、埃を被った葛籠(つづら)や、正体のわからない古い什器が整然と並んでいる。
窓は一つもなく、空気はカビと古い紙が混ざったような、喉に張り付くような匂いがした。
「…すみません、どなたかいますか?」
Sさんの声は驚くほど響かなかった。
まるで壁が音をすべて吸い込んでいるかのようだったという。
ふと見ると、蔵の奥に一つだけ新しすぎるものが置かれていた。
それはSさんがさっきまでいた、オフィスのデスクに置いていたはずの「家族写真」だった。
なぜこんなところに。
恐怖で指先が震え、写真に手を伸ばそうとしたその時、背後から「キィ…」という、木造建築特有の軋み音が聞こえた。
振り返ると、開いたままのエレベーターの扉の隙間から、真っ黒な「何か」が這い出そうとしていた。
Sさんは無我夢中でエレベーターに飛び込み、今度は1階のボタンを何度も何度も連打した。
扉が閉まる直前、蔵の奥から子供のような、あるいは機械のような無機質な声が聞こえた気がしたという。
気がつくと、Sさんは1階のロビーに立っていた。
後日、ビルのオーナーに古い図面を見せてもらったところ、そのビルが建つ前、そこには江戸時代から続く大きな質屋の「蔵」があったのだという。
しかし、解体時にどうしても一つだけ、壊すことも開けることもできなかった蔵があった…という噂があるそうだ。
Sさんは今でも、エレベーターに乗るたびに指が震える。
「もし、あの時あのまま蔵の中に残っていたら、今頃私は『忘れ物』としてあの中に並べられていたかもしれません」
そう語る彼の瞳には、今も拭いきれない深い怯えの色が混じっていた。