今回お話を伺ったのは、横浜市内の有名ヘアサロンで働くアシスタントのAさん(20代女性)だ。
彼女は現在、夜の練習時間も「鏡の正面」に立つことができなくなってしまったという。
「鏡は、現実を映すだけのものではないのかもしれません」
そう語る彼女の声は、空調の音しかしない閉店後のサロンで起きた、世にも奇妙な出来事を裏付けていた。
事の起こりは先月のこと。
Aさんは翌週に控えたカットモデルの試験のため、一人で居残って練習をしていた。
深夜23時。
店内にはシャンプーの残り香と、ハサミの音と空調の唸りを除けば、そこはまるで時間が止まったかのような、物音ひとつしない空間だった。
Aさんがマネキンの髪にハサミを入れている時だった。
ふと、鏡の端に「違和感」を覚えたという。
自分の背後の待合用の椅子。
そこには誰もいないはずなのに、鏡の中では「灰色のカーディガンを着た誰かの肩」が、ほんの少しだけ映り込んでいたのだ。
心臓が跳ね上がった。
しかし、慌てて実物の椅子を振り返っても、そこには誰もいないしカーディガンも見当たらない。
「…気のせいよね」
自分に言い聞かせ再び鏡に向かう。
するとどうだろう。
鏡の中の肩はさっきよりも少しだけ、鏡の中央に向かって移動していた。
まるで、誰かがゆっくりと椅子に座り直したかのように。
Aさんは恐怖で指が震え、ハサミを置いた。
視線を逸らしてはいけない。
そう思えば思うほど、鏡の中の客は鏡のフレームの端からジワリ、ジワリとその全貌を現す。
鏡の中のそれは、顔が見えないほど深くうつむいていた。
だが、鏡越しに目が合いそうになった瞬間、Aさんは反射的に店を飛び出したという。
翌朝、店長より早く出勤したAさんは、震える手でフロントの予約管理端末を確認した。
すると、昨夜は白紙だったはずの23時の枠に、あり得ない予約が入っていた。
そもそも23時は店が閉まっている時間だ。
システム上予約は入れられないはずなのに、そこには見慣れない名前が刻まれていた。
『F』
それを見た店長が震える声でこう呟いた。
「…Fさんだ。あの子が亡くなったの、数年前のちょうどこの時間だったんだよ」
店長の話によれば、Fさんはかつての常連客だった。
最後に予約を入れていた日の昼、彼女は店に現れなかった。
その日の夜、23時ちょうどに急病で帰らぬ人となったからだ。
Aさんが昨夜、鏡の中に見た灰色の肩。
それは、その日カットに来られなかったFさんが、自分が命を落としたその時間に予約を入れてきたのかもしれない。