地方都市の駅前にひっそりと佇む、築30年を越えたビジネスホテル。
今回、その場所で経験した不可解な出来事を語ってくれたのは、メーカー勤務のRさん(30代女性)だ。
それは3月のひどく冷え込む夜のことだった。
慣れない土地での出張。慣れない枕。
Rさんは寝付けぬまま、深夜2時を回った時計の針を眺めていた。
暖房で乾燥した喉を潤そうと、彼女は部屋を出て、自販機が設置されているフロアの連絡通路へと向かった。
深夜の廊下は、薄暗いオレンジ色の予備灯だけが灯り、古いカーペットが足音を吸い込んでいる。
パジャマの上にコートを羽織った彼女が自販機の前に立った、その時だった。
「…ウィーン…」
静寂を切り裂くように、すぐ近くで機械音が響いた。
自販機の並びにあるレストランへと続く自動ドアが、誰もいないのに開いたのだ。
そのレストランは22時には閉店しており、奥のフロアは完全に消灯されている。
センサーの誤作動だろうか。
Rさんは冷たい缶コーヒーを手に取り、そのドアをぼんやりと見つめた。
ドアは一度閉まりかけた。
だが、あと数センチで完全に閉まるというところで、ガクンと何かに当たったかのように跳ね返り、再び開く。
ウィーン、バッ、ウィーン…。
まるで目に見えない何かが、閉まりゆくドアの間に体を割り込ませているかのようだった。
「…何あれ…」
センサーを遮るものは何もない。
床にゴミが落ちているわけでもない。
Rさんは逃げるように足早にそこを去ろうとした。
しかし、その瞬間に見てしまったのだ。
自動ドアのガラス。
深夜の闇を映し出すその表面が、ドアが閉まりかける瞬間の角度で、一瞬だけ何かを鮮明に映し出した。
そこにはドアの細い隙間に、真横から十本以上の「白い指」が差し込まれている光景があった。
指はどれも異常に細長く、関節が本来あるべきではない方向に折れ曲がっている。
爪のないその指先が、閉まろうとする重いガラス扉を無理やりこじ開けようと、ベリベリという嫌な音を立てて蠢いていた。
Rさんは悲鳴を飲み込み、自分の部屋へと走り出した。
背後で「ウィーン…ガシャッ!!」という、これまでにない激しい音が聞こえたが、振り返る勇気などあるはずもなかった。
自室のドアをロックし、震える手で布団を頭から被った。
外の廊下は静まり返っている。
しかし、しばらくすると廊下の向こうから「ズリッ…ズリッ…」という、乾いた布を床に引きずるような音が近づいてきた。
その音はRさんの部屋の前で、ピタリと止まった。
(来ないで…)
心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに響く。
やがてドアの向こう側から、カサカサという、紙や布が擦れるような音が聞こえ始めた。
まるで誰かがドアのわずかな隙間に、何かを差し込もうとしているような。
それは明け方まで断続的に続き、彼女は一睡もできないまま夜を明かした。
翌朝。
恐る恐る部屋のドアを開けたRさんは、その場で凍りついた。
スチール製のドアの吊元(蝶番のある隙間)。
そこには上から下までびっしりと、黒ずんだ「擦り跡」がついていた。
まるで硬いヘラのような何かを、力任せに隙間にねじ込もうとしたような跡だ。
チェックアウトの際、彼女はフロントのスタッフに昨夜の自動ドアについて尋ねた。
スタッフは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに営業用の笑顔に戻ってこう答えた。
「あそこのレストラン、数年前の改装からあのような不具合が出るんです。
…でもお客様…あそこのドア、今は電源を完全に落としてあるはずなんですが」
もしあの夜、彼女が自室の鍵を閉めるのを忘れていたら。
あの隙間から差し込まれたのは、一体何だったのか。
彼女は今でも、誰もいない建物の自動ドアがひとりでに開閉するのを見ると、自分の部屋のドアの隙間に、あの白い指が潜んでいるような気がしてならないという。