人里離れたキャンプ場の夜は、思っている以上に「音」が響く。
今回、この不可解な体験を語ってくれたのは、アウトドアが趣味のTさん(40代男性)。
それは三年前、彼が単独で訪れた、古い県営キャンプ場での出来事だった。
時刻は深夜の1時を回った頃。
持参したキャンプ道具の汚れが気になり、Tさんはランタンを片手に、テントから少し離れた場所にある共同炊事場へと向かった。
周囲に他の利用客はおらず、山特有の湿った風が、木々をザワザワと揺らしている。
コンクリート造りの無機質な炊事場が見えてきた。
しかし、近づくにつれ、Tさんは奇妙な違和感に足を止めた。
誰もいないはずなのに、一番奥の蛇口から、水が勢いよく流れっぱなしになっていたのだ。
「…閉め忘れか?」
そう思いながら近づくと、ジャバジャバという激しい水音に混じって、別の音が聞こえてきた。
「ゴシッ、ゴシッ、ゴシッ…」
何か硬めのタワシで、あるいは力任せに、何かを激しくこすり洗いしているような音だ。
Tさんはランタンの光をそちらへ向けた。
光が届いた先、水が流れるシンクの中には誰の姿もなかった。
だが、その音だけが空っぽのシンクから確実に響いている。
ゴシッ、ゴシッ、カサッ…。
まるでこびりついた何かを、力任せに削ぎ落としているかのような、乾いた、それでいて重い音。
見ると蛇口の真下、激しく水に打たれているそれがあった。
それは真っ白な子供用の靴だった。
片方だけ置かれたその靴は、水の重みでシンクの底に張り付いているが、なぜかその周りだけ、流れているはずの水が真っ黒な泥のように濁り、どれだけ流しても消えることがない。
「なんだ、あれ…」
Tさんが思わず一歩踏み出したその時、背後の暗闇から湿り気を帯びた低い声が響いた。
「…おちない、おちない、おちない…」
声は足元の排水口から、あるいは背後の暗闇から同時に聞こえてくるようだった。
「まだ汚れが…あの時の汚れが、どうしても落ちないの」
反射的にランタンを振り向けると、そこには影のように薄暗い女性の姿があった。
彼女は自分の両手を合わせ、狂ったような速度でこすり合わせていた。
その手には石鹸もタワシもない。
ただ素手と素手を、異常な勢いで激しくこすり合わせているのだ。
その目は虚ろで、Tさんの足元にあるキャンプ道具へとゆっくりと向けられた。
「…それ、貸して。きれいに、してあげるから」
女性がすうっと音もなく距離を詰めてきた。
Tさんは腰を抜かしそうになりながら、道具を放り出し、一目散に自分のテントへと逃げ帰った。
背後では、あの「ゴシッ、ゴシッ」という音が、まるで地面を這いずるような速度で追いかけてくるのが聞こえたという。
翌朝、Tさんは明るくなってから、恐る恐る炊事場を確認した。
そこには彼が放り出した道具が、シンクの横に整然と置かれていた。
しかし、その表面は金属の光沢が消えるほど、研磨剤か何かで執拗に削り取られたような、無数の鋭い傷跡で覆われていた。
そしてシンクの底には、深夜に見た子供の靴の形に、べったりと落ちない黒い煤のような汚れが、焼き付いたように残っていたという。
「あそこのキャンプ場、昔、不慮の事故で子供を亡くした方がいてね…。
その時汚れてしまった遺品を、ずっとここで洗っているという噂があるんだよ」
管理人に後から聞いた話だというが、Tさんは今でも深夜の炊事場から聞こえる水音を聞くと、その時の女性が手を洗っているんじゃないか…と震えが止まらなくなるという。