地方都市の郊外に建つ、中規模の総合病院。
今回、リハビリ病棟の静まり返った夜に体験した戦慄の出来事を語ってくれたのは、現在は退院して社会復帰を果たしているKさん(20代男性)だ。
一年前の夏、Kさんはバイクの自損事故で右足を骨折し、その病院の3階にある整形外科病棟に入院していた。
病室は4人部屋だったが、他の入院患者は高齢者が多く、消灯時間の21時を過ぎれば、室内には寝息と加湿器の微かな稼働音だけが漂う。
骨折の痛みと、慣れないギプスによる寝返りの打てない不自由さから、Kさんは毎晩のように深夜に目を覚ましていた。
入院して一週間が経とうとしていた頃のこと。
ふと目が覚め、枕元のスマホを確認すると、時刻は午前3時を回ったところだった。
「…カツン、カツン…」
静まり返った廊下の向こうから、硬い靴音が聞こえてきた。
それはリノリウムの床を叩く、小気味よいほど規則正しい足音だ。
看護師が履く静かなナックルシューズの音ではない。
もっと硬い、革靴のような音だ。
(こんな時間に当直の先生かな…)
Kさんは寝たままの姿勢で、入り口の引き戸の向こう側に意識を集中させた。
音はKさんの部屋の前を通り過ぎ、隣の病室の前で止まった。
「…ガラガラッ」
隣の部屋のドアが開く音がした。
続いて衣類が擦れるような「サッ…」という微かな音。
隣の部屋には、数日前から意識不明の重体で運び込まれた、一人の男性が入院していたはずだった。
(こんな時間に回診なんて大変だな…)
Kさんは姿の見えない誰かの気配を感じながら、再び眠りについた。
翌朝、検温に来た看護師に、何気なくそのことを話してみた。
「昨日の夜中の3時くらい、先生が回診に来てましたよね。隣の部屋に」
すると看護師は作業の手を止め、怪訝そうな顔でこう返した。
「回診?うちの病院では、そんな時間に医師が回診することはありませんよ。
緊急の呼び出しも昨夜はありませんでしたし…気のせいじゃないですか?」
看護師は「お疲れなのね」と優しく笑って部屋を出ていったが、Kさんの心には小さなしこりが残った。
その日の深夜。
やはり午前3時ちょうどに、あの音が聞こえてきた。
「カツン、カツン、カツン…」
昨夜と同じ。
乱れのない一定の歩幅で近づいてくる。
Kさんは恐怖よりも確認したいという思いが勝り、痛む足を引きずりながら、音を立てないようゆっくりとベッドを抜け出した。
入り口のドアには、廊下の様子を伺える細いすりガラスの小窓がある。
音はKさんの部屋の前でピタリと止まった。
(え…?)
反射的に息を止める。
すりガラスの向こう側は、予備灯のオレンジ色に染まっているだけで、人影らしきものは映っていない。
しかし、ドアのわずかな隙間、あるいは下部の通気口のような細い隙間から、何かが滑り込んできた。
それは、一枚の紙だった。
真っ白な処方箋の用紙。
それを差し込んでいるのは、人間のものとは思えないほど異常に細長く、節々の尖った指だった。
爪のない、蝋細工のように白い五本の指が、小刻みに震えながら紙を部屋の奥へと押し込んでいる。
「カサ…カサササッ…」
紙が床を擦る音が、静かな病室に異様に大きく響いた。
指がゆっくりと闇の中に引っ込み、再び「カツン、カツン…」と靴音が遠ざかっていく。
Kさんは震える手で、その紙を拾い上げた。
そこには見慣れた病院のロゴと共に、Kさんのフルネームが記されていた。
だが、本来あるべき薬品名の欄には、ただ一言こう書かれていた。
『退院予定日:令和〇年〇月〇日』
それは一見、何の変哲もない事務的な記載に見えた。
しかし、その日付は彼が医師から告げられていた退院予定日よりも一ヶ月も早く、そして何より、その日はKさんの「誕生日」でもあった。
翌朝、病院内が騒がしくなった。
隣の病室の患者が深夜3時過ぎに急変し、亡くなったのだという。
恐ろしくなったKさんは、無理を言ってその日のうちに転院を申し出た。
幸い経過が良かったため、手続きはスムーズに進んだが、退院の際に廊下を通りかかったKさんは見てしまった。
あの夜、靴音が消えていった、廊下の突き当たりにあるリネン室のドア。
そこには、大人の背丈を遥かに超えるようなドアの最上部に、泥と脂にまみれた細長い指の跡が、何重にも重なり合ってこびりついていたという。
あの日、Kさんの病室に滑り込んできた処方箋。
書かれていた日付を無事に越えて1年が経つが、彼は今でも深夜に硬い靴音を聞くと、自分の部屋のドアの隙間に、あの白い指が差し込まれているような錯覚に陥るという。
「あの日、もし私が転院せずにあの病院に残っていたら…。
あの処方箋に書かれていたのは、退院日ではなく別の意味だったのかもしれません」