地方都市の端に位置する、老朽化が進んだ精神科病院。
今回、その地下にある当直室で、物理的に説明のつかない怪奇現象に遭遇した体験を語ってくれたのは、当時研修医だったSさん(30代男性)だ。
それは、湿り気を帯びた梅雨の夜のことだった。
その病院の地下フロアは、現在は使われていない古い診察室や備品庫が並び、一番奥に医師のための当直室が設けられていた。
廊下と室内を隔てているのは、木枠にはめ込まれた、今では珍しいすりガラスの引き戸だ。
深夜2時を過ぎた頃、Sさんは当直室の古いソファで、明日の症例報告の資料を読み込んでいた。
廊下の予備灯は節電のために間引かれ、すりガラスの向こう側は、重苦しい闇が支配している。
ふと、Sさんは視線を感じて顔を上げた。
すりガラスの向こう側に、黒い人影が立っていた。
影は微動だにせず、ドアのちょうど真ん中あたりに佇んでいる。
最初は見回りの警備員かと思ったが、声をかけても反応がない。
「…どなたですか?」
返事はない。
意を決したSさんは、勢いよく引き戸を開け放った。
だが、そこには誰もいなかった。
湿った空気の流れる無人の廊下が、暗闇の奥まで続いているだけだ。
気のせいか…。
そう自分に言い聞かせ、Sさんは再びドアを閉めた。
その瞬間、彼は自身の目を疑った。
さっきまで何もなかったはずのすりガラスに、べったりと「手の跡」がついていたのだ。
しかも一つではない。
床からわずか数センチの高さから、大人の背丈を超えた天井近くまで、まるで何かが壁を這い上がったかのように、小さな子供から大人まで、大きさの異なる無数の手形がびっしりと重なり合っていた。
それは外側から、ガラスを力任せに押し付けたような、脂ぎった跡だった。
「…何だこれ」
気味が悪くなったSさんは、ポケットから除菌シートを取り出し、ガラスの表面を拭き取ろうとした。
しかし、どれほど力を込めて擦っても、その手形は微塵も消えない。
Sさんの指先は、滑らかなガラスの表面を空虚に滑るだけだった。
まるで汚れそのものが、ガラスの内側に、あるいはガラスという物質そのものの層の中に、初めから練り込まれていたかのような。
翌朝、Sさんは管理人に事情を話し、すりガラスを取り外して確認してもらうことにした。
枠から外されたガラスの断面を見た管理人は、顔を青くして絶句したという。
その手形はガラスの表面でも裏側でもなく、二枚の薄いガラスを貼り合わせたその「隙間」に閉じ込められていたのだ。
その病院の地下は、数十年前の火災で多くの患者が閉じ込められた場所だったという。
Sさんはあの日以来、すりガラスのある部屋には絶対に泊まらない。
もし、あの手形がガラスの中から這い出してきて、自分の背後に手を伸ばしてきたら…。
そう考えると、今でも夜中に目が覚めてしまうという。