大学生のMさんがそのアプリを入れたのは、友人たちとの「ノリ」だった。
互いの現在地が地図上にリアルタイムで表示され、滞在時間や移動速度、さらにはスマホのバッテリー残量まで筒抜けになる。
プライバシーなど皆無に等しいが、それが今の彼らにとっては面白かった。
異変に気づいたのは、深夜のアルバイトからの帰り道。
駅のホームで電車を待ちながら、何気なくアプリを開いた時だった。
地図の真ん中、自分の現在地を示す青い丸のアイコン。
そこに見慣れない「真っ黒な人型」のアイコンが、ぴったりと重なっていた。
「…何これ。何かのバグ?」
その人型には名前も設定された写真もない。
ただの塗りつぶされた影のような形をしている。
近くに友達がいるのかと周囲を見渡したが、深夜のホームに人影はまばらで、アプリ上の友人は全員、数キロ先の自宅にいる表示になっている。
電車に乗り込み数駅移動してからも、Mさんは何度も画面を確認した。
時速60キロで移動する電車のアイコン。
その青い丸の真上に、あの黒い影は一分の狂いもなく張り付いている。
「GPSの不具合かな…。明日になれば直ってるでしょ」
自分に言い聞かせ、Mさんはスマホをポケットにねじ込んだ。
しかし、翌朝になっても、その影は消えていなかった。
それどころか異様な変化が起きていた。
アプリ画面の中で自分の青いアイコンが、少しずつ黒く染まり始めているのだ。
重なっている黒い人型がまるでアメーバのように、Mさんのアイコンを端から侵食しているように見える。
大学の講義中や昼食時、Mさんは画面をチェックし続けた。
黒い面積は刻一刻と増えていく。
午後3時を過ぎる頃には、Mさんのアイコンの半分以上が、どろりとした黒色に飲み込まれていた。
それと同時に、Mさんは奇妙な重だるさを感じ始めた。
肩に誰かが常に腕を回しているような、湿り気を帯びた圧迫感。
「…ねえ、M。さっきから変だよ。誰か探してるの?」
友人の問いかけに、Mさんは震える指でスマホを見せた。
「これ見てくれよ。この黒いアイコン、何だかわかる?」
友人は画面を覗き込み、怪訝そうな顔をした。
「え?何言ってるの。Mのアイコン、いつも通り青いじゃん。
影なんてどこにも映ってないよ?」
血の気が引いた。
自分にしか見えていない。
アプリのシステムエラーではない。
何かがこの地図という概念を利用して、Mさん個人を確実に捕捉しているのだ。
夕暮れ時。
家路を急ぐMさんの足取りは重い。
スマホを開くと画面の中の自分のアイコンは、もう9割が黒く塗りつぶされていた。
残されたわずかな青い部分が、まるで助けを求めてもがいているように見えた。
その時だった。
背後から、「ヒタッ…ヒタッ…」と濡れた足音が聞こえてきた。
振り返るが街灯の下に広がるのは、自分の影だけだ。
しかし、スマホの画面に目を落とすと、そこには恐ろしい光景が映し出されていた。
アプリの地図上で重なっていた黒い人型が、Mさんのアイコンを完全に捕食し尽くしたのだ。
画面は中心から真っ黒に塗りつぶされ、地図の街路すら見えなくなっていく。
そしてスピーカーからアプリの通知音が、電子の悲鳴のように鳴り響いた。
『100%完了しました』
「ひっ…!」
悲鳴を上げた瞬間、Mさんの耳元で、凍りつくような冷たい吐息が吹きかけられた。
「…み、つけた…」合成音声のような、感情の欠落した声。
Mさんは無我夢中で走り出した。
だが、どれだけ走っても背後の重みは消えない。
スマホを捨てようとしたが、指が画面に吸い付いて離れない。
画面の中では真っ黒になったアイコンが、地図から外れ、画面の縁を乗り越えて「現実のこちら側」へ這い出そうとしていた。
Mさんは自宅に飛び込み、玄関の鍵を閉め、部屋の隅でうずくまった。
「大丈夫、ここは家だ。誰もいない…誰も…」
震える手で最後にもう一度だけスマホを見た。
画面に映っていたのは地図ではなかった。
内側のカメラが勝手に起動しており、暗い部屋で怯えるMさんの姿を映し出していた。
そしてMさんの真後ろ。
カメラが捉えた映像の中には、首から上が真っ黒な塗りつぶしになった、巨大な人型の化け物がMさんの肩に両手を置き、愛おしそうに首筋へ顔を埋めていた。
「あああああああああああ!!!」
Mさんの叫び声は、深夜の自室に虚しく響き渡った。
…しかし。
その叫び声が途切れると同時に、スマホの画面に「プツリ」とノイズが走り、強制的にアプリが終了した。
あれほど重たかった背後の圧迫感も、嘘のように消え去っていた。
翌日。
大学の講義にMさんの姿はなかった。
心配した友人たちが位置情報アプリを確認すると、Mさんのアイコンは大学近くの公園のベンチで、滞在時間12時間を示したまま、ピクリとも動いていない。
「M!大丈夫か!?何やってるんだこんなところで!」
駆けつけた友人たちが目にしたのは、ベンチに腰掛け、がっくりと項垂れているMさんの姿だった。
声をかけると、Mさんはひどく怯えた様子で飛び起き、虚ろな目で辺りを見回した。
「…あ、あれ?俺…ずっとここにいたのか…?」
Mさんの記憶は、昨夜自室で影に襲われた瞬間に途絶えていた。
なぜ自宅から数キロ離れた公園にいるのか、どうやって移動したのか、本人には一切の自覚がない。
ただ、彼が握りしめていたスマホの画面には、今まで見たこともない「エラーメッセージ」が一行だけ表示されていた。
震える手でスマホを裏返すと、そこには泥と脂にまみれた五本の指の跡が、ケースを内側から無理やり掴んだかのように、深く、禍々しく凹んでいたという。
「…もう、無理。これ消すわ」
Mさんは友人たちの前で、震える指でそのアプリをアンインストールした。
それ以来、彼は二度と位置情報を共有するツールは使っていない。
だが、正気に戻ったMさんは、時折、鏡の前で自分の顔をじっと見つめては、言いようのない違和感に襲われるのだという。
鏡に映る自分の瞳の奥に、自分ではない真っ黒な影が、今もぴったりと重なっているような…そんな気がしてならないのだ。
そして、あの日以来。
彼のスマホのバッテリーは、どれだけ充電しても数分で空になってしまう。
まる、目に見えない何かが、今も彼のデバイスを通じて、この世界のエネルギーを吸い取り続けているかのように。